臼歯陽炎のブログ

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色立体は、カラーモデルを三次元表現したものであり、二次元空間における色環と同等である。 空間的な次元を追加することにより、色の変化についても多次元で表現することができる。ここで、二次元の色環は、通常は色相 (赤、緑、青など) と輝度 (光と影の段階的変化) を表し、色立体はそれらに彩度の変化を追加し、三次元構造においてすべての色を球体により表現することができる。

HSL、HSV、RGBそれぞれのカラーモデルにおける色立体の比較。

構造

1810年のフィリップ・オットー・ルンゲによる Farbenkugel (色球体)は、球体の表面 (上側2枚の図) と、それらを水平・垂直に切り出した図 (下側2枚の図) から構成される。 1900年のアルバート・マンセルによる色球体
1810年のフィリップ・オットー・ルンゲによる Farbenkugel (色球体)は、球体の表面 (上側2枚の図) と、それらを水平・垂直に切り出した図 (下側2枚の図) から構成される。

1900年のアルバート・マンセルによる色球体
2011年のJesse Henselによる塩の生地を用いて作られた色球体
色球体の一部。色スペクトルが表現されている。
2011年のJesse Henselによる塩の生地を用いて作られた色球体

色球体の一部。色スペクトルが表現されている。

多くの色彩理論家たちは、各々固有の色立体を定義してきた。多くのものが球体であり、また幾つかのものは3次元上の楕円体である。これら提案されてきた色立体は、色をより明確に定義しようといろいろな観点でデザインされてきた。フィリップ・オットー・ルンゲヨハネス・イッテンによる色球体は典型的な例であり、その他多くの色立体の図法の原型となった[1]。ルンゲとイッテンによるモデル化は、根本的には同一であり、次に記す基礎を形成している。

純色であって、等しい明度において最も彩度を持つ色は、色球体の外周の赤道にあたる部分に配置されている。色環において、補色同士が相互に対となる位置にある。赤道にあたる部分で切り出して球体の中心に向かうと、それにつれて彩度は低くなり、最終的には中心において彩度のないグレーになる。色球体を縦方向に移動すると、色は頂上に向かうに連れて明るくなり、底に向かうと暗くなる。上側の極 (北極にあたる) では、すべての色は白へ集約し、下側の極 (南極にあたる) では黒へと集約する。

色球体の縦軸は、黒から白へとその距離に応じて変化するグレーである。すべての純色 (彩度最大の色) は、球体の外周面に位置し、上から下に移動するに応じて明から暗へと変化する。すべての非純色 (彩度が最大ではなく、対比色による混色) は球体の内側に位置し、同様に明度は上から下へと明から暗に変化する。

用途

美術家・美術批評家においては、色相明度彩度の三種類の値を利用するのに色立体は有用である。HCL色空間やHSLカラーモデルでモデル化されているように、一つの図法として、絵画の描画や美術の解析に用いられている。

中国の科学技術史(ちゅうごくのかがくぎじゅつし)は、長い歴史をもち科学技術の発展に大きく寄与してきた中国における科学と技術の発達を対象とする。古代にはギリシアの哲学者と他の文明圏、および中国の哲学者がそれぞれ独自に科学技術数学天文学を発達させた。彗星日食超新星の世界最古の観測記録が残っているのは中国である[1]伝統医学鍼灸術漢方薬も実践された。

初期の発明**には算盤・影時計・天灯など世界初の人工飛行体などがある[2]古代中国の4大発明といわれる羅針盤火薬印刷は最も重要な技術革新であるが、ヨーロッパに伝わったのは中世も終わりごろである。朝(618年-906年)はことに発明が続いた時代である[2]。ヨーロッパと中国の間で知見の交換が始まったのは朝以前のことである。

イエズス会中国使節は16世紀-17世紀に西洋科学と天文学を中国に持ち込み社会改造に利用する一方、中国技術の知識をヨーロッパに持ち帰った[3][4]。欧米における中国科学史研究の初期の業績の多くはジョゼフ・ニーダムに帰することができる。近代以後の日本では薮内清らがこの分野を手がけてきた。


古代技術

出土した中国製紀元前2世紀

古代中国に始まり長く実用に供されているもののひとつに、道教に由来する鍼灸術漢方薬などの伝統中国医学がある。鍼灸術の実践は紀元前1世紀に遡ることができる。鍼灸術に類似した医術は青銅器時代ユーラシアですでにみられたとする科学者もいる[5]

古代中国は数学や天文学に使う計数・計時装置も発明した。日時計の前身である影時計が中国で出現したのは4000年前のことであるが[2]算盤の発明は紀元前1000年-500年の間ごろである[6][7]。これらを使った中国人は紀元前2137年に初めて日食観測の記録を残し、紀元前500年には最初の惑星の記録を作成した[1]。『絹本』は紀元前400年頃に著された史上初の彗星図解である。約300年間に出現した29彗星を掲載し、彗星の出現を地上の出来事と関連づけて解釈した[1]

張衡の感震計『候風地動儀』の複製

建築では中国技術の頂点に立つのが、紀元前220年-紀元前200年頃に在位した始皇帝の時代に建設された万里の長城である。秦に続くの時代から19世紀まで中国の一般建築に大きな変化はなかった[8]。秦の時代に弩が改良されたが、これはのちにヨーロッパに渡り武器の主流になった。始皇帝の墓から出土した兵馬俑墓から数点のが見つかった[9]

東漢の学者で天文家の張衡78年-139年)は渾天儀(=天球儀:世界初の天球儀は古代ギリシアエラトステネスが発明)を発明したが、これは2,500の恒星と100以上の星座を収めている。132年に張衡は世界初の感震計を発明し、『候風地動儀』と名づけた[10]

後漢25年-220年)の歴史によれば、この感震計は壺のような形の装置で、8個の球のうち1個を落下させて、いつ、どの方向に大地が揺れたか(震源)を知らせるという[10]。2005年6月13日、中国の地震学者がこの複製を作成したと発表した[10]

機械技術者の馬鈞200年-265年ころ)も古代中国で際立つ人物である。馬鈞は絹の機織機を改良し[11]、機械式チェーンポンプを設計して庭園に給水[11]、水転百戯(目隠しをした大きな水車を動力に動く大きく複雑な人形芝居)を創作、明帝に献上した[12]。しかし馬鈞最大の発明は指南車であろう。これは複雑な構造の機械式羅針盤車である。これは各々異なる速度で回転する車輪に同じトルクを配分する差動歯車を組み込んでいるが、これは現代の自動車がすべて装備している機構である[13]

ノギスは中国で2,000年以上前に発明された[2]。また中国文明は航空の領域に世界で初めて踏み込んだ。天灯熱気球の原型)は人類初の『飛行機』といえる。

後漢時代に成立したと見られる著者不明の『九章算術』と言う算術書には開平法連立一次方程式など様々な数学の問題が載っており(籌算参照)、後には数学教育のテキストに採用されている。魏の劉徽は『九章算術』の注釈のなかで、円周率を計算して、3.1416という近似値を得ている(「円周率の歴史」参照)。

南北朝時代の数学者の祖沖之は円周率を3.1415926と3.1415927 の間であると推算し、その密率を 355/113 と決めている。これは当時の世界で最も正確な値であったようである。また彼の息子の祖暅祖暅之)は半径 r の球の体積が{\frac  {4}{3}}\pi r^{{3}}で求められることを考え出した。

古代中国の4大発明

金剛経の複雑な口絵 868年(大英博物館収蔵)

羅針盤火薬印刷の4つは古代中国の4大発明と呼ばれている。紙と印刷の発明がこの中で早かった。印刷はの時代の中国の記録があるが、布地のプリント染色は220年以前のものが残存している[14]。羅針盤の発達を正確に追跡するのは困難だが、針と磁石の引き合いは20年-100年頃に編纂された『論衡』で検証されている[15]中国文学に磁針が初めて登場するのは1086年である[16]

265年-420年)の時代の300年までには錬金術師の葛洪硝石松脂木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著『抱朴子』に記録している[17]。その他の火薬の記録では、850年頃の中国のある書籍には、道教徒が不老不死霊薬を作ろうとしてできた副産物が火薬であるという記述がある[18]

硫黄鶏冠石硝石蜂蜜を混ぜて加熱すると煙と炎が上がり、作業者の顔と腕は焼け、家屋は全焼した[19]
1274年文永の役における「てつはう」の使用を描いた『蒙古襲来絵詞』(永仁元年2月9日(1293年)和暦は改元前のため実際は正応6年か。)の写本の図。なお佐藤鉄太郎 『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』(2005年)によればこの「てつはう」(とモンゴル兵)は江戸時代の加筆であるとする。

この4大発明は中国文明の発展にのみならず、地球規模で巨大な衝撃を与えた。たとえば火薬は13世紀にアラブ世界に広がり、その後ヨーロッパへ伝わった[20]イギリス哲学者フランシス・ベーコンは『ノヴム・オルガヌム』 (新機関)en:Novum Organumのなかで次のように記している:

印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。[21]

14世紀焦玉が記した『火龍経』は中国の重要な戦術論のひとつである。火薬を使った兵器として記載されたものには、火箭(焼夷矢)、火箭(ロケット)、火鎗火器地雷水雷射石砲大砲、および火薬のほか毒ガス煙幕などの処方も収めてある。(彼の著作を参照)

11世紀には、畢昇990年-1051年)が膠泥活字印刷を発明、1298年には王禎木活字を実用化、1490年には華燧が金属活字を実用化した。

中世

1460年の世界の船舶(フラ・マウロ地図**)中国のジャンク船を3-4本マストの大型船と記述

この時代の科学的成果には、マッチ乾ドック、2動作ピストン式ポンプ、鋳鉄馬具頭絡播種器手押し車吊り橋パラシュート天然ガスの燃料利用、立体地形図プロペラ水門がある。618年-906年)の時代はことに発明が相次いだ[2]

7世紀には、手彫りの木版で1ページごとに印刷する書籍印刷が中国と日本で発達した[2]。最も古い印刷物として名が知られるのは9世紀金剛経である[2][22]。その頃活版も出現したが多数の活字が必要になるため顧みられなくなった。グーテンベルクの時代まで活版印刷技術を改良する環境は整わなかったらしい[2]

世界初の紙幣導入は の時代、その後の時代に普及

火薬に加え、中国人は東ローマ帝国の武器『ギリシアの火』の火炎放射装置の一枚上を行った。猛火油猛火油櫃(ポンプ式火炎放射器)は900年ごろ中国ではじめて使われた.[23]。中国のイラストは東ローマの文書の挿絵よりも具体的であり[23]1044年には攻城攻撃にこの使用を奨励する記録が残っているが、そこにはポンプを水平に装着した真鍮の容器と小口径のノズルがみられる[23]975年南京近郊の揚子江の戦の記録から武器の威力がわかるが、風向きが変わると火は宋軍側に吹き戻される[23]

960年-1279年)は長い内戦後の中国に安定をもたらし、科挙能力主義で新時代の社会を切り開いた。初代皇帝が打ち立てた政体は言論と思想の自由を大幅に認めたため、科学の進歩、経済改革、芸術・文学が開花する土壌ができた[24]。交易は国内・対外とも盛んになり、開封杭州の貨幣鋳造所では技術改良が進み次第に宋銭の生産量が増加した[24]。1080年に神宗の貨幣鋳造所は500,000,000個の硬貨(中国人ひとりあたり約50個)を鋳造し、1023年には初の紙幣を生産した[24]。この硬貨は長く市場に出回り700年後の18世紀まで使われた[24]

蘇頌の天文時計塔の内部動作機構、1092年出版の自著より

宋の時代には著名な発明家や科学者が数多く輩出した。官吏の沈括、著作『夢渓筆談[25](1088年)でよく知られる。沈括は本書で、船舶修繕用乾ドック、航行用磁気羅針盤の使用のほか、『真北』という概念(および北極への磁気偏角)の発見について触れている。また沈括は、土地形成の地質学的理論(地形学)を創案したり、きわめて長い時間で地質学的地域に気候変動が起こることを理論化した。同じような才能に恵まれた官吏の蘇頌は、1088年頃に完成した開封の天文時計台を技術監督したことで知られる。時計台は水車を動力に脱進機で駆動した。この脱進機がヨーロッパに出現するのは2世紀後のことである。時計台の頂上に冠するのは機械仕掛けで動く大きな青銅製の渾天儀である。蘇頌は『本草図経』(図解薬局方、原典は1058年-1061年)を学者グループで編纂し1070年に出版した。この薬学論文は関連分野が植物学動物学鉱物学冶金学にまたがる博物学的なものであった。

中国の天文学者は1054年に世界で初めて超新星観測記録を残したが、この超新星はその後かに星雲となり、超新星爆発に関係することが確認された最初の天体となった[26]アラビア天文学中国天文学はモンゴル人支配によるの時代に交流があった。クビライが設立した中国天文局でイスラム教徒の天文学者が働き、ペルシアマラガ天文台で中国人天文学者が観測に従事した[27]。(これ以前に、古代インドの天文学者は中国の宮廷に専門知識を伝授している[3]。)

元の時代の技術伝播

元の時代の13世紀にも経済的観点による技術革新があったが、これはクビライの時代の初の紙幣の大量生産である[2]。13世紀になるとヨーロッパとモンゴルの間では度々接触があったが、その代表は不安定なフランス=モンゴル同盟**である。西方で展開した戦線では、攻城包囲戦専門の中国人部隊が編成され、モンゴル軍の一翼を担った。1259年-1260年アンタキヤ公ボエモン6世 **とその義父アルメニアヘトゥム1世 **率いるフランス騎士団とフレグのモンゴル軍は軍事同盟を結び、共同でイスラム教シリアの征服に乗り出し、まずアレッポ、次にダマスカスを攻略した[28]ロジャー・ベーコンの個人的知己で1254年-1255年フランス国王ルイ9世の命を受けモンゴル帝国を訪れたウィリアム・ルブルックは、東西間で火薬のノウハウ移転を仲介した人物らしいといわれる[29]。羅針盤は1219年-1223年にかけてペルシアのモンゴル人を訪れたテンプル騎士団総長ペドロ・デ・モンタギューがヨーロッパに持ち帰ったといわれる[30]

ジークフリート』(ドイツ語: Siegfried)は、リヒャルト・ワーグナー1856年から1871年にかけて作曲し1876年に初演した楽劇[1]。台本も作曲者による。ワーグナーの代表作である舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の3作目に当たる。

概要

ノートゥングを鍛えるジークフリート(ハインリヒ・グーデフスHeinrich Gudehus(1845-1909))

『ニーベルングの指環』四部作は、ひとつのプロローグと3日を要する舞台上演と見なすことができ、その「第2日」に当たる本作『ジークフリート』は、「序夜」(『ラインの黄金』)を除く「三部作」の中間に位置づけられる作品である。

「指環」四部作はそれぞれ独立した性格を持ち、単独上演が可能である。『ジークフリート』は全3幕からなり、上演時間は約3時間50分(第1幕80分、第2幕70分、第3幕80分)[2]。第2幕第2場「森のささやき」の音楽はしばしば管弦楽のみで独立して演奏される。

物語は、ドイツ叙事詩ニーベルンゲンの歌』を始めとするドイツ英雄伝説や『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』など北欧神話の物語を下敷きにしつつ、ワーグナー独自の重層的・多義的な世界が構築されている。直接引用されてはいないがギリシア神話の影響も多分に見られる。

『ジークフリート』の台本は1852年12月、音楽は1856年から1871年にかけてそれぞれ完成された。作曲期間には後述の通り10年以上の中断をはさんでいる。1876年8月13日から17日まで開催された第1回バイロイト音楽祭において、『ニーベルングの指環』四部作全曲として初演された。

バイロイト音楽祭では四部作が連続上演される。内訳は以下のとおり。

作曲の経緯

構想と台本

  • ヤーコプ・グリムが出版した『ドイツ神話』からワーグナーが『ニーベルンゲンの歌』などを知ったのは1843年であった。1848年11月には、後の『神々の黄昏』に当たる『ジークフリートの死』の台本草案を書き、1851年にその前編に当たる『若きジークフリート』(後の『ジークフリート』)を構想、この構想はさらに物語の発端まで拡大されていく。その詳細については『ニーベルングの指環』及び『ラインの黄金』も参照のこと。
  • 『若きジークフリート』は1851年5月に構想され、6月にはその散文原稿と韻文草稿が成立する。
  • 1852年12月、四部作の台本すべてが完成する。
  • 1856年、全体構想の四部作化に伴い、『若きジークフリート』に手が加えられる。
  • 1863年、台本の公刊に際し、『ジークフリート』と改題された。『神々の黄昏』も同様に改題されている。

作曲

  • 1853年9月5日、イタリアラ・スペツィア滞在中にワーグナーが体験したという「霊感」については『ラインの黄金』を参照のこと。その後、同年11月から『ラインの黄金』の作曲に着手。
  • 『ラインの黄金』が1854年に完成。
  • 『ヴァルキューレ』が1856年に完成。
  • 1856年3月、『ヴァルキューレ』にひきつづいて『ジークフリート』の作曲に着手。しかし翌1857年、第2幕第2場まで進んだところで中断される。1857年6月28日付けのフランツ・リストに宛てた手紙にワーグナーは「私はジークフリートを森の中の菩提樹の下に残して、涙ながらに別れを告げた」と書いている。それでもその2週間後には再び筆を執り、同年8月に第2幕のオーケストレーションを終了したが、その後再び中断した。
  • 1864年にいったん作業を再開、1865年第2幕の総譜草稿が完了するが、またも中断する。その後1868年から1869年にかけて第1幕と第2幕を校訂、第3幕には1869年3月から本格的にとりかかり、6月に作曲を終えた。『ジークフリート』全曲の総譜完成は1871年である。
  • これら中断の間に、『トリスタンとイゾルデ』(1855-1859)、『ヴェーゼンドンク歌曲集』(1858)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1861-1867)がそれぞれ完成、1865年4月以降には『パルジファル』の一部スケッチも手がけられた。
  • 四部作の最後を飾る『神々の黄昏』は1874年に完成した。

中断の事情

『ジークフリート』の中断期間は1857年6月から1869年3月までの12年とされるが、上記のように手を付けている期間もあり、実質的には約10年である。中断の理由として、以下の点が挙げられる。

  1. ワーグナーは1849年のドレスデン5月蜂起に荷担してチューリヒに亡命しており、『ローエングリン』はリストの尽力によって1850年に初演されたものの、その後は新作を発表できず、このままでは音楽界からも忘れ去られるのではないかという危機感があった。
  2. 「指環」四部作の構想拡大によって、全曲完成の見通しが立たず、また仮に完成したとしても上演・出版のあてもないこと。
  3. 『ヴェーゼンドンク歌曲集』作曲の契機ともなったマティルデ・ヴェーゼンドンクとの親密な交際や最初の妻ミンナとの離婚(1862年)など、生活環境の変化に伴って創作意欲に刺激を受けたこと。

こうしたもとでワーグナーとしては、さしあたり『トリスタンとイゾルデ』を「実用向き」な作品として世に送り出したい意向があった[3]。 しかし、『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーひとりの転機にとどまらない、音楽史上でも画期的な「事件」となった。ひきつづいて「軽い喜劇」の予定で取り組んだ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』もまた構想が膨らみ、ワーグナーの作品中でも最大規模の大作となるなど、この時期のワーグナーの充実ぶりは顕著である。

1864年5月からはバイエルン国王ルートヴィヒ2世の援助により、安定した生活のもとで創作に打ち込めるようになった。ルートヴィヒ2世から「指環」四部作の完成・上演を大いに期待されたことで、『ジークフリート』完成への条件がそろってきたものと見られる。

蓮華寺(れんげじ)は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。

蓮華寺
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蓮華寺山門から参道越しに庫裏に臨む
所在地 京都府京都市左京区上高野八幡町1
位置 北緯35度3分50.66秒
東経135度47分59.99秒
山号 帰命山
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来
創建年 寛文2年(1662年)再興
開山 実蔵坊実俊
開基 今枝近義
別称 洛北蓮華寺
文化財 紙本著色山王霊験記 ほか

蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり[1]応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである。

上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であった[2][3]。重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている[2]

上述のように、蓮華寺の起源である西来院は本来は時宗寺院であった。しかし、近義による再建に際して、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となった。また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来する[1]

蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家詩仙堂を造営した石川丈山朱子学者の木下順庵狩野派画家の狩野探幽黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力した[2]ことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の「東北歴覧之記」(『近畿游覧誌稿』所収)に記されている[4][5]。また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれている[4][6]。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった[7]

Shimanto_River_And_Iwama_Bridge_1

四万十川(しまんとがわ)は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川[2] 。全長196km、流域面積2186km2[1][注 1]四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっている。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、また柿田川長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。名水百選[3]日本の秘境100選にも選ばれている。ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではない[4]

四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

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