房川渡中田関所(ぼうせんのわたしなかたせきしょ)とは、江戸時代に奥州街道・日光街道の利根川筋(現大落古利根川)に設置された関所の一つである。奥州街道・日光街道の栗橋宿から中田宿の間、利根川筋古利根川沿いにあった。房川渡中田関所名の由来は、房川渡と中田宿の間にあったためと言われていたという[1]。通称栗橋関所であった[2]

房川渡場図(『新編武蔵風土記稿. 巻之38 葛飾郡之19』に拠る)

地理院地図 Googleマップ 房川渡中田関所(栗橋関所)


概要

この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。

慶長年間に、地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、上河辺新田(現栗橋地区)が開墾された。その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿は利根川対岸の中田宿と合宿の形態をとっていた。

栗橋宿から中田宿につながる奥州街道・日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかっため、代わりに渡船場が置かれ房川渡しと呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された[3]関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624年)に栗橋に移設した。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、通称「栗橋関所」とされた[4]

房川渡中田関所の設置

江戸幕府は防衛上の理由から、大河川に橋を架けず、奥州・日光街道の利根川筋に渡船場が設置された。これは、古名を引き継ぎ、房川渡と呼ばれた。そして「江戸の治安を図る爲・・・(中略)・・・設けられたのが関所がある」[5]

栗橋宿の設置と房川渡

栗橋宿の設置は、元和元年(1615年)あるいは元和2年(1616年)とされている[6]。『房川渡船場御用留』(弘化4年3月改)によると、元和年間(1615年-1623年)に設置された[6]。渡船場を房川渡と呼び、堤の上に関所、その下に渡船に従事する屋敷(水主屋敷)があり[6]、また、元和2年(1616年)渡船場を開いて往来に役立ったとの記録がある[6]

房川渡中田関所の設置

房川渡中田関所の設置時期は明らかではないが、「「寛政重修諸家譜」には、天正18年(1590)伊奈忠治房川などの関を守るとあり、また、元和2年(1616)の関東十六定船場設定の際、房川渡とともに栗橋が指定されている(御触書覚保集成)。中田栗橋関所覚書(宝暦9年から天明8年まで、足立家文書)に「寛永元甲子年御関所相初」とあり、「(新編武蔵)風土記稿」に番所番人の四人は寛永元年(1624)に置かれた」とあり[7]寛永元年(1624年)には、房川渡中田関所が創設されていた[6][8]。関所の初代守護は、関東代官の伊奈氏であった[9]伊奈忠治が四人の関所番を抱え入れた時期(寛永元年)を関所の設置時期とされている[10]当初、関所は中田宿側に関所が置かれていたが、対岸の栗橋宿側に移された[4]。栗橋宿の北、渡船場前に設置され、対岸に中田宿があった[10]。正式名称は房川渡中田御関所であったが、「栗橋関所」を通称とした[4]

関所の構造と関所道具類

『房川渡中田関所文書』の「嘉永元申年十月」によると、関所の面積が縦14間1尺、横15間1尺であり、その中に約16坪の番所があったという[11]。また、関所内には、三道具突棒刺股袖搦)が置かれていた[12]

房川渡中田関所には、鑓4筋、三道具、捩り棒十本、長熊手2本、捕縄十筋・番手桶等が供えられていたが、鉄炮・武器はなかった[13]。文久元年6月の「御関所日記写」[✝ 1]によると、伊奈半左衛門支配当時には、関所備武器として鉄炮・弓が置かれていたが、支配替えにより引き上げられ、鉄炮・武器は置かれていなかった[13]。その後、文久元年6月には、代官新居顕道が、江戸からの御預り鉄炮が関所に置かれた[13]

関所の流出と再建

利根川渡良瀬川の合流地点にあったため、洪水のたび関所が流され[14]、天明元年(1781年)の覚では、元禄3年、元禄8年、宝永元年(1704年)、寛保2年(1742年)とあり[✝ 2]、天明13年の覚では、元禄期に3度あったという[✝ 3]

関所の再建は、寛文元年(1661年)、寛文3年(1663年)、元禄3年(1690年)、元禄8年(1695年)、延享元年(1744年)に行われている[14]。関所は、河原の浸食により後退し、その規模も縮小されていったという[14]

房川渡し

栗橋・中田宿および房川渡中田関所の位置関係(大日本沿海輿地全図拠り。)

房川渡しの由来

奥州道で、幸手から古河への経路は、幸手から外国府間(幸手市)から房川とよばれた渡良瀬川を渡り栗橋(茨城県五霞村元栗橋)、小手指(五霞村)を経て古河に至るものであった[15]江戸時代以前の街道(および整備される以前の日光街道)は幸手宿から北東に向かった先に、古くから旧渡良瀬川(現利根川)を渡る渡船場があり、房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれていた。渡河した左岸には旧栗橋村があった。そこから北上して現在の古河市へ入った[✝ 4]。「房川渡」の名称の理由は不明であるが、言い伝えでは、栗橋宿内庵室にいた僧(法花房)がおり、小舟で渡河するものが「坊か渡し」と言われたことに由来するという。[16]

渡船

渡船は、享保17年(1733年)に、関所(栗橋)に、渡船2艘[✝ 5]、 茶船5艘が係留し[✝ 6]が、中田宿側に茶船5艘が係留していた[✝ 7]。これらは、一般の関所通行人が使用していた[17]

船頭に対する規定

関所番から、栗橋宿馬船水主11人、船頭1人に対する規定について、中田宿には川高札が建てられ、天保9年8月には、 「(1)船頭は二十歳から五十歳までの健康な者に限る、 (2)女・乱心・首・囚人・大きな荷物・夜中通行は差図を受けたうえで渡す、 (3)定船場以外で渡船をせず、見付け次第注進する、 (4)武士からは御定の通り船賃を取らず、町人百姓からは御定の外は船賃を取ってはいけない、 (5)渡船仲間には栗橋宿の船渡町出生の身元確かな者以外は仲間にしない、 (6)船を出すときには往還の人に呼びかける、 (7)渡船仲間の家族の女が中田宿へ耕作に行くときは、関所へ声を掛け、通行のための鑑札を受け取り、帰りは返却することが申しつけ」られており[✝ 8]、 船頭の条件(年齢・健康状態)、女・荷物等の通過、夜中の通行は指図を受けた上での渡船、定船場以外からの渡船の禁止、船賃の指示、渡船仲間に関する指示、船を出す時の確認、渡船仲間の家族の女の通行のための規定等が表されていた[17]

日光社参と船橋

房川渡には、日光社参の際、臨時に船橋が架けられており、いくつかの絵図が残されている。 『日光社参房川渡船橋之絵図』には、安永5年(1776年)、第10代将軍徳川家治が日光社参の際の船橋が描かれている。[✝ 9]船橋は、高瀬舟53艘並べ、舟はと石詰めの俵を結んで沈め、丸太と舟を結び付け橋桁を並べ、粗朶を敷き、土砂と砂をのせた。また、舟の固定のため、川の両岸にをさし杭と艫網を繋いでいた[18]。 『日光山御社参之節房川渡シ御船橋絵図』には、天保13年(1842年) 将軍の日光社参の際の船橋が描かれていた[✝ 10]