ポーランド・リトアニア共和国1569年 - 1795年)は、ポーランド王国リトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年に成立した複合君主制(ポーランドの元首とリトアニアの元首を一人の人物が兼ねる)国家。16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった[2][3][4][5]

政治形態

この連合国家の政治システムは、法と貴族階級(シュラフタ)によって支配される立法府(セイム)が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば貴族共和国ないし黄金の自由とも呼ばれる(以下、国称を共和国と略称)。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば民主制[6]立憲君主制[7][8][9]連邦制[10]の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった[11]。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではない。多民族のポーランド王国の立法行政司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王リトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた[12][13][14]

黄金期であった初期の数十年間[15][16][17][9][18]を過ぎると、共和国は17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的[19]な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家ロシアプロイセンオーストリアによる領土分割によって国家自体が消滅するに至った。その消滅までの期間は急速なものだったにもかかわらず、末期の共和国は政治的な大改革を成し遂げ、世界で最も古い民主主義成文憲法の一つである「1791年5月3日憲法」を生みだすこととなった[20]

なお、この国家を指して(ポーランド民族とリトアニア民族の)二民族の共和国と呼ぶこともあるが、これはポーランドの共産主義時代の1967年にポーランド人アマチュア歴史家のパヴェウ・ヤシェニツァ英語版があみだした造語である。これは当時の共産圏ソ連主導の民族イデオロギーを反映したものであり、「共和国」が実現していた当時にはこのような呼び方はなかった。このような民族観は、ポーランド人の成立の実際の過程にそぐわない。[要出典]

国称

共和国の正式名称は「ポーランド王国およびリトアニア大公国」

  • ポーランド語: Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie
  • ルーシ語: Королѣвъство Польское и Великое князство Литовское
  • リトアニア語: Lenkijos Karalystė ir Lietuvos Didžioji Kunigaikštystė

18世紀以前はそのラテン語の国称「Regnum Poloniae Magnique Ducatus Lithuaniae」でも記されることがあった。

また18世紀後半になると「最も静穏なるポーランド共和国[21]」が対外的な国称としては一般的となった。

一方、ポーランド国内では「共和国」を意味する「ジェチュポスポリタ」の名称で呼ぶのが習慣化した。

近年では「二民族の共和国」という呼称も一般化しつつある。「共和国 (Rzeczpospolita) 」および「二民族 (Oba Narody) 」という言葉は当時から広く用いられていたが、「二民族の共和国」という呼称は共和国が存在していた時期に使われたことはなく、1967年にパヴェウ・ヤシェニツァの本で用いられたのが最初の例である[22]。日本語では「両民族の共和国」「二国民の共和国」「両国民の共和国」とも訳される。

なお、歴史学においては、「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。

地理

共和国の地勢図(1764年)

16世紀、ポーランドの司教地図学者だったマルチン・クロメルは、ラテン語の地図帳『ポーランド:その地理、民族、文化およびポーランド共和国の官職』を出版したが、これは当時の最も分かりやすい共和国の案内ガイドだと言われていた。クロメルの著作とゲラルドゥス・メルカトルが製作した同時代の地図は、共和国の国土の大部分を平野として描いている。

共和国南部のクレスィは、ステップ地帯として有名であった。タトラ山脈をその最高部とするカルパチア山脈は南部国境を形成し、バルト海が北部の自然国境となっていた。当時の大部分のヨーロッパ諸国家と同じく、共和国は広大な森林地帯に覆われており、その傾向は東部において顕著だった。歴代国王の公的な狩猟場であったビャウォヴィエジャの森の今日に残留する部分は、無傷で残っているヨーロッパの原生林としては最後のものである。

人口

1569年ルブリン合同後の人口は[23]

総合人口 約700万人


1618年デウリノの和約後、共和国は領土拡大に伴い人口も増加した[24]

総合人口 約1200万人