臼歯陽炎のブログ

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2016年11月

本当に天才というか、不思議な人で直感だけで幾つもの数学の定理を発見した。
個人的には、もしかしたら彼は脳に何らかの障害(
サヴァン症候群のような何か)を抱えていたのではないかと思う。

Wikipediaより
シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャン
Srinivasa Aiyangar Ramanujan1887年12月22日 - 1920年4月26日)はインド数学者。極めて直感的、天才的な閃きにより「インドの魔術師」の異名を取った。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャン
Srinivasa Aiyangar Ramanujan
本当に天才というか、不思議な人で直感だけで幾つもの数学の定理を発見した。個人的には、もしかしたら彼は脳に何らかの障害(サヴァン症候群のような何か)を抱えていたのではないかと思う。シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan、1887年12月22日 - 1920年4月26日)はインドの数学者。極めて直感的、天才的な閃きにより「インドの魔術師」の異名を取った。

生涯

クンバコナムのサランガパニー通りにあるラマヌジャンの生家。

1887年、南インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナムの極貧のバラモン階級の家庭に生まれた。幼少の頃より母親から徹底したヒンドゥー教宗教教育を受けた(このことはのちに渡英するラマヌジャンの運命に小さからぬ影響を与えることになる)。学業は幼い頃から非常に優秀で、数学にも強い関心を寄せていた。15歳のときにジョージ・カー (George Shoobridge Carr) という数学教師が著した『純粋数学要覧』という受験用の数学公式集に出会ったことが彼の方向性を決めた。

奨学金を得てマドラスパッチャイヤッパル大学に入学したが、数学に没頭するあまり他の科目の授業に出席しなくなり、1906年12月にファインアートの科目の学位認定試験に落第し、次の年度にも再び落第したため、奨学金を打ち切られて学位を得ないまま中途退学に追い込まれた[1]。しばらく独学で数学の研究を続けていたが、やがて港湾事務所の事務員の職に就き、そこで上司の理解に恵まれ、仕事を早めに終えて、職場で専ら数学の研究に没頭していた。

その後、周囲の勧めもあって、1913年、イギリスのヒル教授、ベイカー教授、ボブソン教授に研究成果を記した手紙を出す。しかし手紙は黙殺された。

しかしケンブリッジ大学ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、ラマヌジャンの手紙を読み、最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕した。というのも、ラマヌジャンの成果には明らかに間違っているものや既知のものもあるが、中には「この分野の権威である自分でも真偽を即断できないもの」、「自分が証明した未公表の成果と同じもの」がいくつか書かれていたからである[2]

ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジにて他の科学者と共に撮影。中央がラマヌジャン。

こうしてハーディはラマヌジャンをケンブリッジ大学に招聘し、ラマヌジャンは1914年に渡英する。しかしイギリスでの生活に馴染むことができず、やがて病いを得てインドに帰国、1920年に病死した。ラマヌジャンは敬虔なヒンドゥー教徒であり厳格な菜食主義者だったが、第一次世界大戦下のイギリスはドイツによる通商破壊もあり、そのような食材は確保が困難だった。こうしたことが原因で、ラマヌジャンは身体的な衰弱を来たしたものとされる。なお、ラマヌジャンの病気は結核か重度のビタミン欠乏症、あるいは近年の研究ではアメーバ肝炎と言われる[3]

渡英後に発表した四十編の論文の他には、渡英前の数学的発見を記したノート三冊、帰国後に記された「失われたノートブック」が残っている。ただし、大学で系統的な数学教育を受けなかったため、彼は「証明」という概念を持っておらず、得た「定理」に関して彼なりの理由付けをするに留まっていた(寝ている間にナマギーリ女神が教えてくれた、など)。共同研究を行っていたハーディも、彼の直感性を損ねることを恐れて証明を押し付けることは避け、朝ラマヌジャンが持ってきた半ダースもの「定理」を一日かけて改めて証明するという方法をとった。明確な証明を付けなかったことで、ラマヌジャンの業績は理解されにくいものとなった。彼が26歳までに発見した定理に関して、その後多くの数学者の協力で証明が行われたが、その作業が完了したのは1997年である。

渡英前のノートに記された公式群は、既に知られていたものも多かったが、連分数や代数的級数などに関しては新しい発見があった。渡英後に発表したラマヌジャンの保型形式、それに関連したラマヌジャン予想は重要な未解決問題であった(1974年ドリーニュが解決)。その他、ロジャース・ラマヌジャン恒等式の再発見や確率論的整数論を創始した功績も高く評価されているが、帰印後のハーディへの手紙に記された「擬テータ関数」の発見が最高の仕事と評されている。後にハーディはラマヌジャンの仕事について、以下のように述懐している[要出典]

(ラマヌジャンの仕事は)真に偉大な仕事の単純さと不可避性を備えてはいなかった。それは奇妙さが減れば、より偉大になっただろう。しかしそこには誰も否定できない天賦の才能があった。それは深く無敵の独創性である。もし彼がもっと若い頃に発見され、馴らされていたら、おそらくもっと偉大な数学者になって、新しい発見やより重要な発見をしただろう。一方、彼はそれほど「ラマヌジャン的」でなくなり、ヨーロッパの教授風になって、得るものより失うもののほうが大きかったかもしれない。

また、ハーディは1から100までの点数で数学者をランク付けするのが好きだった。それによると、ハーディ自身は25点、リトルウッドが30点、偉大なるヒルベルトが80点、そしてラマヌジャンが100点だった[4]。ハーディは謙遜して自分をわずか25点にしか評価していないが、ラマヌジャンに100点を与えたのは、彼の業績に対してハーディが抱いていた尊敬の度合いを表している。

ラマヌジャンの τ 関数

ラマヌジャンは、現在ラマヌジャンのデルタと呼ばれている次の保型形式を計算した。

\Delta =x\prod _{{n=1}}^{{\infty }}(1-x^{n})^{{24}}=\sum _{{n=1}}^{{\infty }}\tau (n)x^{n}

彼は x のべきの係数 \tau (n) が乗法的な関数であることを見抜き、さらにそこから

\sum _{{n=1}}^{{\infty }}\tau (n)n^{{-s}}

を考えて、そのオイラー積表示

\prod _{p}{\frac  {1}{1-\tau (p)p^{{-s}}+p^{{11-2s}}}}

を与えた(正確には、「証明」していないが)。このオイラー積には p−2s という ps の2次の因子が現れており、このようなオイラー積はラマヌジャンによって初めて発見されたものである(「2次のゼータ」の発見)。

タクシー数

ラマヌジャンの逸話として有名なものの一つに次のものがある。

1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。

「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」

これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。

「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」

実は、1729は次のように表すことができる。

1729 = 123 + 13 = 103 + 93

すなわち、1729が「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で表すことのできる数 A のうち最小のものであることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。

これは、ラマヌジャンがあらゆる数に興味を持ち、数に対する探究心が高かったことを表す逸話である。当時はフェルマーの最終定理が数学界の主な話題であり、小さな立方数が頭に入っていたとすれば1729から1728 (= 123)や729 (= 93)が思い浮かぶのも不思議ではない。1と1000がそれぞれ立方数であることも明らかなので、あとは1729が最小であるかどうかの計算だけである。この逸話は、ラマヌジャンの計算能力が高かったというような意味合いで語られることがあるが、実際は、様々な研究をしていたラマヌジャンは以前からこれを知っていて、それを思い出したのであろう。このようなことから、リトルウッドは「全ての自然数はラマヌジャンの個人的な友人だ」と述べたと言われる。この逸話のため、1729は俗にハーディ・ラマヌジャン数タクシー数などと呼ばれており、スタートレックフューチュラマなどのSFや、ハッカー文化の文脈では「一見すると特に意味のない数」のような文脈でこの数が使われていることがある。ちなみに1729は、カーマイケル数でもある。

ちなみにこの逸話には続きがあり、ハーディが四乗数でも同様のものがあるのかを尋ねた所、ラマヌジャンは少し考えた後「あると思うが大きすぎて分からない」と答えたという。この直感は当たっており、実際、四乗数はそれより何桁も大きい数である。

635 318 657 = 1344 + 1334 = 1584 + 594

補足:上記でいう立方数は自然数を3乗した数のことであり、整数(0は含まず)を3乗した数として負の数まで含めれば、91が最小(絶対値が最小)である。

91 = 63 + (−5)3 = 43 + 33

円周率の公式

ラマヌジャンは、今日ではモジュラー関数と呼ばれる考えを元に、次の円周率の公式を発見した。

{\frac  {1}{\pi }}={\frac  {2{\sqrt  {2}}}{99^{2}}}\sum _{{n=0}}^{\infty }{\frac  {(4n)!(1103+26390n)}{(4^{n}99^{n}n!)^{4}}}
{\frac  {4}{\pi }}=\sum _{{n=0}}^{\infty }{\frac  {(-1)^{n}(4n)!(1123+21460n)}{882^{{2n+1}}(4^{n}n!)^{4}}}

これらの公式は、収束が非常に早いものとして知られている。1985年に、ウィリアム・ゴスパー (William Gosper) は、1番目の式を用いて、当時としては世界最高の1752万6200桁を計算した。ただし、ラマヌジャンが証明を残していなかったため、ゴスパーは本当に円周率を計算しているのかどうか不確かな状態で計算を行った。計算結果は、それ以前に計算されていた円周率の値と一致し、式が正しいという一種の「証明」を与えた。これらの式は、その後、証明されている。

また、次のような円周率に関する近似式も発見している。

\pi \simeq {\sqrt[ {4}]{{\frac  {2143}{22}}}}=3.1415926525\cdots
\pi \simeq {\frac  {63\left(17+15{\sqrt  5}\right)}{25\left(7+15{\sqrt  5}\right)}}=3.1415926538\cdots
{\frac  {1}{2\pi {\sqrt  2}}}\simeq {\frac  {1103}{99^{2}}}\;\Longleftrightarrow \;\pi \simeq 3.1415927\cdots

セント・イシュトヴァーン (SMS Szent István) は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の戦艦。テゲトフ級戦艦の4番艦である。テゲトフ級の中で唯一ハンガリー側からの出資で建造され、中世ハンガリー王国の初代国王で聖人のイシュトヴァーン1世にちなんで命名された。シュツェント・イストファン、スツェント・イストファーン等、ドイツ語風の読み方の表記をされる場合もある。

セント・イシュトヴァーン (SMS Szent István) は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍戦艦テゲトフ級戦艦の4番艦である。テゲトフ級の中で唯一ハンガリー側からの出資で建造され、中世ハンガリー王国の初代国王で聖人イシュトヴァーン1世にちなんで命名された。シュツェント・イストファン、スツェント・イストファーン等、ドイツ語風の読み方の表記をされる場合もある。

概要

ダヌビウスフィウメ造船所で建造され、1915年に就役。当時のフィウメには大型艦艇を建造する施設が存在しなかったため、船渠の整備から準備を開始したことから巨額の費用を要しての建造であった。

従前の3隻と異なり、サーチライトが追加され、前方の煙突の周囲の甲板が艦橋から後方の煙突の周囲に至るまで拡大され、前部マストの通風塔が改善されていた。また、缶と主機も他の同型艦と異なっており、推進軸も2軸であった(他の艦は4軸)。このほか、同級4隻の中では唯一水雷防御網を装備しないで竣工した艦でもあった。

その艦歴の大半を母港ポーラ近海で行動したが、1918年6月10日オトラント海峡封鎖を打破するためにアドリア海へ進出した際、イタリア海軍のルイージ・リッツォ英語版イタリア語版少佐率いる魚雷艇部隊に捕捉され、魚雷艇MAS-15の雷撃により右舷に魚雷1発を被雷し、程なく転覆沈没した。死者は89人に留まったが、これはオーストリア・ハンガリー海軍が水泳を全ての乗組員に教えていたことに加え、海況が極めて凪いでいたこと(だからこそ魚雷艇が活動できたとも言える)が功を奏したものである。

セント・イシュトヴァーンは、バーラムアリゾナと並び、沈没する姿を動画として撮影された3隻の戦艦の一つであり、動画は赤十字の資金調達活動に使用された。



高知の田舎侍の坂本龍馬が、なぜ軍艦や大量の鉄砲をイギリスから輸入できたのか?
坂本龍馬もフリーメイソンの手下だったのではないかと言われてます。
その証拠に長崎のグラバー邸にフリーメイソンの紋章が刻まれてます。
高知の田舎侍の坂本龍馬が、なぜ軍艦や大量の鉄砲をイギリスから輸入できたのか?坂本龍馬もフリーメイソンの手下だったのではないかと言われてます。その証拠に長崎のグラバー邸にフリーメイソンの紋章が刻まれてます。

高知の田舎侍の坂本龍馬が、なぜ軍艦や大量の鉄砲をイギリスから輸入できたのか?坂本龍馬もフリーメイソンの手下だったのではないかと言われてます。その証拠に長崎のグラバー邸にフリーメイソンの紋章が刻まれてます。

Wikipediaより

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社

現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに[5]、200万人は米国のグランドロッジに所属している[6]

「フリーメイソン」とは厳密には各個人会員の事を指しており、団体名としては: Freemasonry(フリーメイソンリー)、: Franc-maçonnerie(フランマソヌリ)、: Massoneria(マッソネリア)、: Freimaurerei(フライマウレライ)、: Масонство(マソンストヴォ)である。以下、英語的な発音である「フリーメイソンリー」と記載するが、「フラン・マソン」や「マッソン結社」なども使われている[7][8]。なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している[9]

この友愛結社(組合)は、管轄上、独立したグランドロッジ英語版もしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否し、境界を形成する[* 2]。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織である。フリーメイソンリーは秘密結社[10]または「semi-secret」(半分秘密の)[11][12]団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものがあり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある[13]。「お前、秘密を漏らしたら首を切るぞ」と脅かして口伝で秘技を伝えた実務的メイソンの時代は400年間続いた[14]

西洋史に深いかかわりをもつ。帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員がフリーメイソンであった。


フリーメイソンリーは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある[15]

起源とフリーメイソンリーに関して対外的な資料が少ないため、諸説存在する。レギウス・マニュスクリプトとして知られるある詩人は、およそ1390年頃と疑われる、としており、これは諸説あるメイソン起源説の中では、もっとも早くに上るものである。[16] 16世紀には、スコットランドにメイソンのロッジMasonic Lodge)が存在していた、とする証拠もある。[17] 例えば、スコットランドのキルウィーニングのロッジには、16世紀後半の記録があり、それは1599年にあった第二シュワー法に言及している。[18] イングランドにおいては、17世紀中盤にはロッジが存在していたことを示す明白な書証がある。[19] 最初のグランドロッジである英国グランドロッジ(GLE、グランドロッジ・オブ・イングランド)は1717年6月24日に設立され、この日に、4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。 こうして統括機関は素早く拡張され、殆どの英国のロッジが結合した。 しかし、少数のロッジは、GLEが企図した例えば第三位階の創設のような幾つかの近代化に憤然として、1751年7月17日にこれに対抗したグランドロッジを形成し、彼らはそれを古代英国グランドロッジと称した。[20] この「近代」(GLE)と「古代」の二つのグランドロッジは、1813年9月25日に英連邦グランドロッジ(UGLE)に統合されるまで、互いに覇を競った。 アイルランド・グランドロッジとスコットランド・グランドロッジは、それぞれ1725年1736年に形成された。 フリーメイソンリーは、1730年代までには古代、近代共に北米の英植民地に進出し[* 3]、多様な州グランドロッジを組織した。 独立戦争後、米国のグランドロッジは独立し、それぞれの州に根を下ろした。 何人かは、ジョージ・ワシントンを初代グランドマスター英語版として、これらを股にかけた合衆国グランドロッジの組織を構想したが、多くのグランドロッジが統合によって、自分達の権威が低下するのを望まなかったため、このアイディアは短命に終わった。[21]

古代であれ近代であれ、ロッジを運営するにあたって行なっているメイソンリーとしての活動内容に差はなかったのだが、こうした部門はF.& A.M.(Free and Accepted Masons)だったり、A.F.& A.M.(Antient Free and Accepted Masons)だったりと、そのネーミングに名残を見出し得た。

ヨーロッパの最も古い管区であるフランス大東社(GOdF)は、1733年に設立された。 しかしながら、大東社は至高の存在(メイソンでは、複数の宗教の会員がいることから各員が神と信じるものを最大公約数をとってこう表現する)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、英語圏メイソンとの確執を引き起こし、両社は1877年頃、公式の関係を断絶した[22]。 こうした中で、グランドロッジ・ナショナーレ・フランセーズ(GLNF)が、一般に英連邦メイソンとの友好関係を保ち、世界と調和した唯一のグランドロッジとなった。 こうした経緯故に、しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。

  • 英連邦メイソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
  • 欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。

ラテン系の地域においては、一説によると大東社系スタイルの大陸型メイソンが優勢を占めていたとされるが、英連邦メイソンと友好関係にあるグランドロッジも存在し、それは英メイソンと友愛関係を仲良く分かち合っている。 世界の他の地域においては、マイナーなバリエーションも存在するが、フリーメイソンリーの大部分は、英連邦メイソンのスタイルに近似の傾向にある。

通説

石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族紳士知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとするのである。

または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正体ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団体であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。

石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規コンパスSquare and Compasses)がシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方棟梁とも訳す。Master Mason)」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。


ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ男爵(Jean Baptiste Joseph Fourier, Baron de、1768年3月21日 - 1830年5月16日)は、フランス数学者物理学者

固体内での熱伝導に関する研究から熱伝導方程式(フーリエの方程式)を導き、これを解くためにフーリエ解析と呼ばれる理論を展開した。フーリエ解析は複雑な周期関数をより簡単に記述することができるため、音や光といった波動の研究に広く用いられ、現在調和解析という数学の一分野を形成している。

このほか、方程式論や方程式の数値解法の研究があるほか、次元解析の創始者と見なされることもある。また統計局に勤務した経験から、確率論誤差論の研究も行った。

業績

フーリエの法則と熱伝導方程式

ある固体内の温度分布は、どのような方程式で表されるか。その答えがフーリエが導いた熱伝導方程式(熱方程式やフーリエの方程式などとも呼ばれる)である。

フーリエは、「各点での熱の移動する速さは、その点における温度勾配に比例する」(フーリエの法則)ことを示した。これにより、ある時刻のある領域における熱量は流入した熱と流出した熱の差で表すことができる。また、熱量と比熱・温度の関係式からも熱量を表すことができる。フーリエはこれらの関係式を用いて熱伝導方程式を導き、さらにいくつもの境界条件のもとでこれを解いた。

フーリエ解析

ある有限区間上の関数三角関数の級数で表すことをフーリエ展開といい、無限区間に拡張されたそれをフーリエ変換という。

フーリエ解析とは、これらフーリエ展開やフーリエ変換を用いて関数を解析すること、特に関数を周波数成分に分解して調べることである。これは線形微分方程式を解くための極めて強力な武器であるばかりでなく、物理学や工学において光や音、振動、コンピュータグラフィックスなど幅広い分野で用いられている。

フーリエは著書『熱の解析的理論』において、「任意の関数は、三角関数の級数で表すことができる」(フーリエの定理)と主張した。この証明は不十分なものであったが、のちに多くの数学者たちによって厳密化が行なわれた。

フーリエ解析は「ほとんどあらゆる」関数が周期関数の和として「表せる」という逆説性から多くの数学者たちの注目を浴び、「ほとんどあらゆる」の範囲や「表せる」という根拠をめぐる議論は、まだ関数という言葉の意味すら曖昧だった19世紀の解析学の厳密化に貢献した。後のリーマンの積分論やカントール集合論もこれに関する研究から生まれることになる。

その他の業績

  • フーリエの最初の論文は方程式の数値解法についてのもので、方程式論や方程式の解法に彼は終生興味を持ち続けた。
  • 熱伝導方程式を解くとき、フーリエは単位に注目して解のあたりをつけるということを行なった。これは次元解析のはしりであった。

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ[注釈 1]Vincent Willem van Gogh1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダポスト印象派画家

オランダ人名のvanはミドルネームではなく姓の一部であるために省略しない。つまり正確にはゴッホでは無く常にファン・ゴッホと呼ばなければならないが、日本ではこの原則が無視されることが多く、ファン・ゴッホもゴッホという呼び方で定着してしまっている。

主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。フォーヴィスムドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。


アルル(1888年-1889年5月)

ゴーギャン到着まで

ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった[117]。ファン・ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった[118][手紙 20]

アルルの跳ね橋」1888年3月、アルル。クレラー・ミュラー美術館。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。

ファン・ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている[手紙 21]。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(「アルルの跳ね橋」)、3月下旬から4月にかけてはアンズモモリンゴプラムと、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた[119]

同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、外壁が黄色に塗られた2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている[120][手紙 22]。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた[121]。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた[122]。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って「ラ・ムスメ」という題を付けた[123]。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた[124]。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、「ひまわり」を4作続けて制作した[125]。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた「夜のカフェ」を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている[126][手紙 23]

一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた[124]。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「夜のカフェテラス」を描き上げた[127]。9月下旬、「黄色い家」を描いた[128]。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(「アルルの寝室」)[129]

ゴーギャンとの共同生活

ゴーギャンによる「ぶどうの収穫――人間の悲哀」(左=1888年11月、アルル)と、ファン・ゴッホによる「赤い葡萄畑」(1888年11月、アルル)。

同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった[130][注釈 16]。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの「赤い葡萄畑」)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの「アルルの女」)[131]。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた[132]。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている[133]。11月下旬、ゴッホは2点の「種まく人」を描いた[134]。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている[135][手紙 24]

ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写はカリカチュア的ともいえる[136][注釈 17]

一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ファン・ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている[133]。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている[137][手紙 25]。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた[138]

同年12月23日、ファン・ゴッホが自らの耳たぶを切り落とす事件が発生した[注釈 18]。12月30日の地方紙「ル・フォロム・レピュブリカン」は、「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼家1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、『この品を大事に取っておいてくれ』と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。」と報じている。ファン・ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない[139][注釈 19]。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せてから、パリに帰った[140]

アルル市立病院

包帯をしてパイプをくわえた自画像」1889年1月、アルル。退院後に担当医らのために描かれた2枚の自画像のうち1枚[141]。当時35歳。
レー医師の肖像。1889年1月、アルル。当時23歳で、まだ医師資格を得ていないインターンであった[142]

ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った[143]。テオは、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している[144]。担当医(インターン)のフェリクス・レーのほか、郵便夫ルーラン、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・サルがファン・ゴッホの面倒を見てくれ、テオに兄の病状を書き送っている。容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月7日退院して「黄色い家」に戻った[145][手紙 26]

アルルの病院の中庭。1889年4月、アルル。

退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」も完成させた[146]。ファン・ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたとテオに書いている。しかし、2月7日、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、近所の人が警察に対応を求めたことから、病院に収容された[147]。2月17日に仮退院したが、住民29名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出され、2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された[148][149]

3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた[150]。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ[151]。日中付添人と外出することを許されると、絵を再開した[152]。家主から「黄色い家」の立退きを求められたため、荷物を片付けたが、不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった[153]。4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの精神病院に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ[154][手紙 27]

マケドニア共和国とは、あまり聞かない名前ですが、どんな国なのでしょうか?

マケドニア共和国(マケドニアきょうわこく)、通称マケドニアは、東ヨーロッパバルカン半島に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。

マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、ギリシャがマケドニアという国名を拒否し、同国との間で激しい国名論争(マケドニア呼称問題)が生じている。

憲法上の正式名称はマケドニア共和国であり、約125ヶ国はこの呼称を用いている一方、欧州連合日本等はこれを認めず、国際連合に加盟したときの暫定呼称マケドニア旧ユーゴスラビア共和国を使用している(後述)。

国名

憲法上の正式名称は、Република Македонијаマケドニア語ラテン文字転写は、Republika Makedonija。読みは、[rɛˈpublika makɛˈdɔnija] ( 聞く) レプブリカ・マケドニヤ)。通称は、Македонија(Makedonija)。

公式の英語表記名は、Republic of Macedonia。略称、Macedonia[ˌmæsɨˈdoʊniə] マセドニア)。また、アルバニア語での表記はRepublika e Maqedonisë(レプブリカ・エ・マチェドニス)である。

日本語での表記は、マケドニアもしくはマケドニア共和国。ただし前者では地域としてのマケドニアと区別がつかない。また日本は国連と同様にマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で国家承認を行っており、行政公文書における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となる。しかし、日本国外務省では単に「マケドニア」あるいは「マケドニア共和国」と簡略化して表記する部分も部分的に見られる。この他に日本語でのリリースを発表する機関として欧州連合(在日欧州委員会代表部)があるが、欧州連合の加盟国であるギリシャがマケドニア共和国の正式呼称を認めていないため、通常「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」で言及される。

「マケドニア」とは、マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)にもまたがる地域の名称である。マケドニア地域の南部を領有し、その地域名として既にマケドニアの名を使用していたギリシャ政府は、マケドニアに対し国名を変更するように強く抗議した。そのため、1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」を国際社会における暫定的呼称として、国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」) [3] の名で、この国との関係をもった。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国[1]ロシア連邦等約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっている。

ギリシャとの国名論争については、#マケドニア呼称問題統一マケドニアの各項も参照。

歴史

古代

マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人トラキア人などの部族が割拠していた。紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、現在のマケドニア共和国に相当するマケドニア地域北部はマケドニア王国の支配下となっていった。マケドニア王国はアレクサンドロス3世の時代に最大版図となるが、その死後、国は分裂し、紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となっていった。紀元前146年、この地域は正式にローマ帝国のマケドニア属州の一部とされた。ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった[4]

中世

サムイルによってプレスパ湖に立てられた聖堂跡。ここにはサムイルの墓がある。

マケドニア地域には北から西ゴート族フン族アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。7世紀初頭には、この地域の多くはスラヴ人の居住地域となっていた。スラヴ人たちは、それぞれ異なる時期に段階的にこの地域に入ってきた。スラヴ人の居住地域は、現ギリシャ領のテッサロニキなどを含む、マケドニア地域のほぼ全域に拡大していった[4]680年頃、クベル英語版に率いられたブルガール人の一派がマケドニアに流入した。

9世紀後半、テッサロニキ出身のキュリロスメトディオスの兄弟によって聖書がスラヴ語に翻訳された。9世紀に北方から侵入し東ローマ帝国と衝突しながら勢力を拡大していった第一次ブルガリア帝国は、9世紀末のシメオン1世のときに最盛期を迎え、マケドニア地方もその版図に収められた。キュリロスとメトディオスの弟子たちにはスラヴ語の聖書を用い、ブルガリア帝国の支援の下スラヴ人たちにキリスト教を布教していった。シメオンの死後ブルガリア帝国は次第に衰退し、マケドニア地方は再び東ローマ帝国の支配下となった[4]

978年、マケドニア出身のサムイルはこの地で東ローマに対する反乱を起こした。サムイルはこの地方のオフリドを首都としてブルガリア帝国を再建し、彼のもとで再度ブルガリア帝国は急速な拡大を迎えた。しかし、1014年にサムイルが死去するとブルガリア帝国はその力を失い、1018年には完全に滅亡し、再び東ローマの支配下に帰した[4]

その後、この地方は北で起こったセルビア人の地方国家の乱立やその他の地方領主の群雄割拠の状態を経て、12世紀末ごろには新興勢力の第二次ブルガリア帝国セルビア王国、そしてラテン帝国ニカイア帝国といった十字軍国家の間で勢力争いが繰り広げられる[4]

十字軍を退けて復活した東ローマ帝国やブルガリア帝国は、東から伸張してきたオスマン帝国によって国力を落としており、その背後をぬってセルビア王国ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの下、大幅な領土拡大に成功した。セルビア王国はマケドニア地方全域を支配下におさめた。その息子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの下でセルビアは絶頂を迎え、ウロシュ4世はスコピエを首都として同地にて1345年、「セルビア人とローマ人の皇帝」として戴冠を受け皇帝に即位する。しかし、ウロシュ4世の死後はセルビアは地方領主の割拠する状態となり、1371年マリツァ川の戦いなどを経てマケドニアはオスマン帝国の支配下となった[4]

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アルキメデスとは、お風呂で「エウレカ!」と叫んだ人である。
アニメとは関係ない。
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Wikipediaより

アルキメデス(Archimedes、: Ἀρχιμήδης紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシア数学者物理学者技術者発明家天文学者。彼の生涯は全容を掴めていないが、古典古代における第一級の科学者という揺ぎ無い評価を得ている。彼が物理学にもたらした革新は流体静力学の基礎となり、静力学の考察はてこの本質を説明した。彼は革新的な機械設計にも秀で、シージ・エンジン[1]や彼の名を冠したアルキメディアン・スクリューなどでも知られる。また、数々の武器を考案したことでも知られる[2][3]

一般には、アルキメデスは史上まれな偉大なる古代の数学者という評価を受けている[4][5]級数を用いて放物線面積を求める取り尽くし法[6]円周率の近似値計算[7]、彼の名で「アルキメデスの螺旋」とも呼ばれる代数螺旋の定義[8]、回転面(en)体積の求め方や、大数の記数法も考案している[9]

てこを利用した投石機を用いて敵の海軍を打ち破った。アルキメデスはシラクサの戦いにおいて、彼には危害を加えないよう命令が下されていたにも関わらず、共和政ローマの兵士に殺害された。マルクス・トゥッリウス・キケロがアルキメデスの墓を参った言い伝えによると、彼の墓は球面に外接(en)する円柱を象っていた。アルキメデスは、球とそれに外接する円柱は、体積の比と表面積の比がどちらも 2:3 であることを立証しており、彼自身この証明が最も成果があるものと見なしていた。

発明した品々とは異なり、アルキメデスの数学に関する記述は古代においてほとんど知られていなかった。アレクサンドリアから伝わった数学は多くアルキメデスを引用していたにも関わらず包括的に纏められなかったが、530年にミレトスのイシドロスが編集し、6世紀にはアスカロンのエウトキオス(en)の著作が広く読まれ、初めて一般に知られるようになった。これらもまた中世までに廃れたが、ルネサンス期には多くの科学者に発想の元を提供する役目を持ち[10]、1906年に発見されたアルキメデス・パリンプセスト(en)からは、彼が得た数学的帰結に至る、知られていなかった洞察の過程についての情報を得ることができた[11]

全世界で人気のSFドラマシリーズ『スタートレック』が、最初のTVシリーズの放送から50周年ということで、新シリーズが製作されるそうです。

「スター・トレック」新ドラマシリーズ、日本でも来年観られる! - シネマトゥデイ
テレビドラマ「スター・トレック」の新シリーズ「スター・トレック:ディスカバリー(原題)」が2017年にNetflixで配信され、日本でも観られることが明らかになった。

STARTREK DISCOVERY』ですが、どういう世界観になるのでしょうか?

7of9s

まず、50年前のスタートレックのリブート、これはJ・J・エイブラムスが映画にしてますね。

ファースト・シーズンの後の時代、ボーグとの戦いやホロデッキやQが登場したTNG、これはもうやりました。

移動する船ではなく、宇宙ステーションが舞台の『ディープ・スペース9』、これも無いでしょう。

宇宙の辺境の地に飛ばされて、ボーグと戦いながら、たった1隻で地球を目指す『スタートレック ヴォイジャー』。

ファースト・シーズンの前の時代、惑星連邦が成立した頃でヴァルカン星人と地球人の間で意思の疎通がまだ上手くいってなかった時代を描いた『スタートレック エンタープライズ』。

世界観というか、シチュエーションというか、既にやり尽くした感があります。

まず、時代設定を何時にするのか?

過去の例と照らし合わせると、メインの舞台となる宇宙船の名前は『ディスカバリー』と推測されます。

敵を誰にするのか? クリンゴン、ロミュラン、ボーグ、カーデシア人、ドミニオン、様々な敵が登場しましたが、おそらく全く新しい敵が登場するのではないでしょうか?

過去のスタートレックTVシリーズ全727エピソードをNetflixで放送するそうなので、そちらも楽しみです。

スター・トレック 50周年記念メッセージ



スタートレック・ディスカバリー の感想・レビュー。時代・キャストの秘密情報とは? ※ネタバレ注意 スタートレックディスカバリー スタートレック

銅とは、金と同じではない。
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ソチオリンピックの金メダル・銀メダル・銅メダルの価値が判明しました!

まず・・・銅メダルはまさかの300円ほど・・・安っ!安すぎるでしょ!

そして銀メダルは・・・約32,000円。なるほどねぇ

最後に金メダルは・・・56,000円!!ちなみに全て金だけのめだるだと200万円は軽く超えるそうです。そして重いとのこと。


Wikipediaより
(どう)は原子番号29の元素元素記号Cu周期表ではと同じく11族に属する遷移金属である。英語copperラテン語cuprumと言う。

名称

語源

ラテン語では cuprum と言い、元素記号Cuはラテン語の読み、さらに cyprium aesキプロス島真鍮)に由来し、キプロスフェニキアの銅採掘場があったことに由来する[1]

英語のcopperはラテン語のcuprumに由来し、「カッパー」ないし「コッパー」と呼ばれる。しばしばbronze(ブロンズ)が銅を示すと言われるが誤りで、bronzeは正確には青銅を指す。なお、銅メダルの素材は確かに青銅であり、Bronze Medal(ブロンズメダル)というのは正しい。

日本での名称

その色から赤金[要出典](あかがね)と呼ばれた。江戸時代には精錬技術が発展し、純度の高い銅を素銅(すあか)、不純物を多く含む銅を山銅(やまがね)と呼び、区別するようになった[2]。 中国の康煕字典には赤銅の記述が見られるが[3]、日本では赤銅(しゃくどう)は金を数パーセント混ぜた銅合金を示す。

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