臼歯陽炎のブログ

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2017年01月

臍帯血(さいたいけつ、英名:Umbilical cord blood)とは、胎児と母体を繋ぐ胎児側の組織であるへその緒(臍帯:さいたい)の中に含まれる胎児血。「(さい・へそのお)」は常用漢字ではないため、さい帯血とも表記される。1993年以降は白血病などの血液疾患患者への移植医療に広く用いられるようになっている。

概要

胎児は胎盤を通して母側から酸素や栄養分を受け取り、老廃物を母体側に渡すが、胎児と胎盤をつないでいるのが臍帯である。出生時の臍帯は太さが2cm,長さが50-60cmほどで、臍帯には2本の臍帯動脈と1本の臍帯静脈が流れているが、その血管内の血液が臍帯血で[1]40ml〜100ml程度の量がある[2]。移植に使われる臍帯血は出産後に胎盤や臍帯内に取り残された胎児血を採取保存したものである[3][4]。以前には出産後に臍帯や胎盤とともに破棄されるものだったが、1980年代前半に臍帯血には造血幹細胞が含まれることがわかり、1988年、臍帯血を使った最初の移植医療(Gluckman博士らによるFnconi貧血児への移植)が行われ、その後各地で臍帯血バンクが設立され1993年以降バンクを通して白血病などの疾患への移植医療が各国で行われている[5][6]

出産後、臍帯は新生児からは切り離され、胎盤もまもなく娩出(後産)される。そのため出産後、新生児から切り離された後の臍帯から血液を採取しても、新生児や母体にはなんら影響はない[7]

臍帯血に含まれる造血幹細胞移植は骨髄移植や末梢血幹細胞移植と並ぶ造血細胞の移植術であるが、臍帯血は骨髄や動員末梢血幹細胞に比べると造血幹細胞の数が少なく、生着率は約 85% とされ[8]HLA 適合度が低いと造血の回復が遅いデメリット(移植初期の失敗が多い)はあるが、適切に保存された臍帯血は短期間で移植が可能で、造血幹細胞が一旦生着し安定した造血が始まると骨髄や動員末梢血幹細胞による造血よりも移植片対宿主病(GVHD)が少ないメリットがある。移植片対宿主病(GVHD)が少ない為にHLAが完全一致でなくても移植が可能でありより少ないドナープールでドナーを見つけられる。造血細胞数が少ないために、臍帯血移植が始まった当初は、移植先は小児が多かったが、近年では大人への移植も多く行われている[5]

2006年には秋篠宮妃紀子悠仁親王を出産した際に、悠仁親王の臍帯血を公的バンクの一つである東京都赤十字血液センターさい帯血バンク(2012年現在の日本赤十字社関東甲信越さい帯血バンクの前身)に提供している[9][10]

性質

出生時に臍帯に取り残された胎児/新生児血である臍帯血は、個体差は大きいものの平均値で成人の末梢血と比べると赤血球がやや大きめで血液の濃さはやや濃い目である。白血球も成人の末梢血中の白血球より多く、成人の末梢血ではほとんど見られない造血細胞も臍帯血では見られる特徴がある。

個体差があるため検査施設の報告により数字に差はあるが、一つの信頼できるデータでは臍帯血の平均値として赤血球数470万/μl、ヘモグロビン(Hb)16.5g/dL、ヘマトクリット(Ht)51%、平均赤血球容積(MCV)108fL、白血球数1.8万/μl、好中球数1.1万/μl、リンパ球数5500/μlであり、体積あたりの赤血球の数は成人とあまり変わらないものの、赤血球一つ一つの大きさが108fLであり、それは成人の90fLより大きい。そのために臍帯血はヘモグロビン(Hb)値やヘマトクリット(Ht)値が成人の末梢血より大きく、つまり臍帯血は成人の末梢血よりやや濃い目の血液といえる。(ただし、それは正常な時期に出産された新生児の数字であり、早産児では赤血球は大きいが、数は少なく貧血の早産児が多い)白血球も成人の基準値上限のおよそ2倍程度の数である。血小板数は個人差が大きいものの成人と同じ範囲内におさまる。従って、新生児は多血気味が多く、取り残されるはずの臍帯血が取り残されずに新生児に流れ込むとさらに多血気味になりうる[11][12]。出生時の臍帯血の赤血球中のヘモグロビンの60-80%は胎児型ヘモグロビンFであり、成人型のヘモグロビンAは少ない[13]

新生児の臍帯血の量は、個人差は大きいものの、体重3Kgの新生児でおよそ100ml程度である[14]

臍帯血中の有核細胞数は4-6億個の物が一番多く約3割、6-8億個の物も約3割、8-10億個が3番目で約2割、10億個以上のものが1割強である[15]。体の大きい成人への移植には8億個以上が必要とされている[16]。有核細胞に含まれるCD34+細胞(造血幹細胞を含む若い造血細胞)は成人の末梢血ではほとんど見られないが、臍帯血では0.2-0.5%の範囲でふくまれるものが多い[15]

治療への活用

白血病などの難治性血液疾患の根本的治療のひとつである造血幹細胞移植において、造血幹細胞の供給源として骨髄および幹細胞動員末梢血などと同じく移植ソースの一つとされる。臍帯血は、細胞提供者(ドナー)の負担がなく、HLA2座不一致[註 1]でも移植が可能なことなどから、造血幹細胞の有力な供給源と考えられている[5][6]

問題点としては、臍帯血に含まれる造血幹細胞の数が骨髄や末梢血動員幹細胞に比べて少ないために、生着不全(造血幹細胞が定着しないこと)の確率が骨髄・末梢血動員幹細胞に比べて高いことや、造血の回復が遅いことがあげられる。含まれる造血幹細胞数の多寡が移植の成否を分ける重要な要素となるため、採取された臍帯血の全てが移植に利用できる訳ではないこと(採取された細胞数が少ない場合は移植には用いられない)、特に成人の患者への適応症例はまだ多くはなく、骨髄移植に比べ知見が少ないことなどもあげられる[5][6]

が、造血幹細胞数の少ない臍帯血も、幹細胞を増殖させた上で移植したり、複数人の臍帯血を一緒に移植する「カクテル移植」が試みられるなど、問題を克服する努力も行われている[17][18]

近年、造血幹細胞以外の体性幹細胞である間葉系幹細胞が臍帯血中から見出された。これまで間葉系幹細胞骨髄中に存在することが報告されていたが、骨髄だけでなく臍帯血も間葉系幹細胞の供給源として、軟骨組織工学的修復あるいは再生医療への臨床応用へ適用できる可能性が示された。さらに、神経細胞肝細胞上皮細胞など、より広範な組織への多分化能を有する前駆細胞の存在も示唆されており、世界各国で熱心に研究が進められている[19][20][21][22][23]

臍帯血移植の対象となる疾患

急性リンパ性白血病急性骨髄性白血病慢性骨髄性白血病若年性骨髄単球性白血病骨髄異形成症候群悪性リンパ腫多発性骨髄腫・副腎皮質ジストロフィー・骨髄巨核球造血不全性血小板減少症・先天性赤芽球癆・Fanconi貧血・遺伝性ニューロパチー・Hurler病・Hunter病・再生不良性貧血・重症先天性好中球減少症・サラセミア・X染色体性リンパ増殖性症候群など[24]

早期に移植が必要な場合は臍帯血を積極的に検討する(骨髄移植はドナーの選定・調整に時間を要する)。ただし、感染リスクの高い患者や抗HLA抗体が存在する場合、幹細胞の生着が悪い疾患(再生不良性貧血など)、骨髄移植が良い成績を上げている疾患(慢性骨髄性白血病など)などでは臍帯血より骨髄移植を優先する[24]

造血幹細胞ソースとして各ドナーソースとの比較

血液の元になる造血幹細胞は成人では骨髄の中に存在し、1960年代から白血病などの治療で失われた造血機能再建に骨髄移植が行われてきた。その後研究が進み、2012年現在、造血幹細胞のソースとしては骨髄の他に、末梢血動員幹細胞、臍帯血がある。

臍帯血移植は骨髄移植や末梢血動員幹細胞移植と比べると初期の治療関連死は多いが、再発率と移植片対宿主病(GVHD)の発症頻度は低く、全体としては無病生存率はほぼ同じである[25]

  • 末梢血動員幹細胞移植 成人に顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF)を投与するとドナーの造血幹細胞が刺激されて、血液(末梢血)に大量の造血幹細胞が出現する。その大量の造血幹細胞が出現しているドナーの血液を採取し造血幹細胞を含む成分のみを取り出し、残りの赤血球や血漿はドナーに戻す。末梢血動員幹細胞移植では骨髄からよりもさらに多くの造血細胞が取れ造血の回復が早いというメリットがあるが、ドナーにG-CSFの副作用の恐れがあることと、患者に慢性GVHDが強い傾向があるというデメリットもある。G-CSF投与で採取された幹細胞は分化した傾向の物が多く、一生にわたる超長期的な造血の維持が出来るかについては疑問がもたれている[26][27][28][29]

造血幹細胞は胎児の血液(末梢血)中にも存在するが、1980年代には臍帯(へその緒)および胎盤の胎児側血管のなかの血液中にも造血幹細胞が含まれることが明らかになった。臍帯血に含まれる造血幹細胞は成人の骨髄中の造血幹細胞より未熟で、つまりより若い細胞であることが確認されている。その為に一旦生着して血球の回復が軌道に乗れば成人から得た造血幹細胞よりも高い造血能力があると考えられている。また、臍帯血中のTリンパ球はより未熟で移植患者を異物と認識して増殖する力が弱く、その為にHLA型が完全一致していなくとも(成人から得た移植ソースに比べ)移植片対宿主病(GVHD)が重症化しにくいと考えられている[27]。ただし、骨髄や末梢血動員幹細胞に比べると細胞数が少ないために幹細胞の生着不全のリスクがあること、造血の回復が遅いことが不利な点としてあげられている[30]

細胞数や造血の回復の早さ・生着率では、末梢血動員幹細胞>骨髄>臍帯血。細胞の若さでは、臍帯血>骨髄>末梢血動員幹細胞となる。慢性GVHDのリスクの大きさも末梢血動員幹細胞>骨髄>臍帯血となる[26][27][28][29]



優等生キャラが嫌いだ。
喩えて言うと、昔の谷亮子みたいな。
真面目で、清潔で、一点の曇りもない良い子、そういう奴を見ると虫唾が走る。
一体、誰の目を気にして優等生を演じてるのか?
谷亮子がナンチャッテ政治家になってから、「生活の党と山本太郎となかまたち」から「自民党」に鞍替えすると言い出した。
社民党や民進党なら、まだ判る。
しかし、政策が真逆の自民党に鞍替えって一体なんだ?
ノンポリのタレント議員なんた要らない。
三原じゅん子も今井絵理子も要らない。
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政党交付金を不正利用。谷亮子元参院議員(41)が政治交付金(つまり税金)から勤務実態のない父親に数百万の給料を渡していたことが判明。
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オリンピックで金メダルを獲っていた頃の優等生キャラの谷亮子は一体どこへ行った?
一枚、皮を剥けば、これが本当の姿か?
そういう裏表ある人間が嫌いだ。

カイの戦い(カイのたたかい、英語: Battle of Kay)、またはスレフフの戦いチューリッヒアウの戦いパルツィヒの戦い七年戦争中の1759年7月23日ノイマルク英語版のカイ(現ポーランドキイェ英語版)の近くで行われた戦闘。

カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル英語版将軍はプロイセン軍2万6千を率いてピョートル・サルティコフ英語版伯爵率いるロシア軍4万1千を攻撃したが、衆寡敵せず敗北し、プロイセン軍とロシア軍がそれぞれ8,300と5,000以下の損害を出した。その後、プロイセン王フリードリヒ2世はロシア軍とオーストリア本軍の合流を阻止しようとして決戦に挑んだが、クネルスドルフの戦いでロシア=オーストリア連合軍に大敗を喫した。


背景

1759年までにプロイセンの戦略は守備に重点を置いたものになっていた。4月に冬営が終わると、フリードリヒ2世が下シュレージエンで軍を集結したことで、オーストリア軍はボヘミアに留まることを余儀なくされた。一方、ロシア軍はポーランド西部に転進、続いてオーデル川に向けて西進し、プロイセンの中心地ブランデンブルク辺境伯領ベルリン自体を脅かした。フリードリヒ2世はフリードリヒ・アウグスト・フォン・フィンク英語版を派遣してロシア軍に対抗、続いてクリストフ2世・フォン・ドーナ英語版の縦隊も派遣した[2]

7月のはじめの時点では、ロシア軍はポズナンへ進軍する用意ができており、オーストリア軍はボヘミアの北の境界で、ラウジッツシュレージエンの境界であったクフィサ川英語版ポーランド語: Kwisa、ドイツ語ではクワイス川、ドイツ語: Queis)に進軍して、その境界で15キロメートルにわたって軍を展開していた。オーストリア軍のレオポルト・フォン・ダウンはそこで必要に応じてラウジッツとシュレージエンの両方に進軍できた。そして、同盟軍は7月8日に作戦会議を開いた。サルティコフはシュレージエンへの侵入を強く主張した。ダウンはフリードリヒ2世とその弟ハインリヒの動きを危惧してシュレージエンに進軍したくなかったが、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いる予備軍を派遣した[3]

フリードリヒ2世は7月4日に野営地のランデスフート英語版を離れ、北西のローヴェンベルク英語版へ進軍した。この町は10日にダウン軍がいた位置の20キロメートル東に位置していた。一方、ハインリヒはプロイセン本軍を率いてザクセンからシュレージエンのザーガンへ進軍した。これによりダウン軍とサルティコフ軍の連絡は切断された。しかし、ダウンはラウドン軍のみではロシア軍への支援が足りないと思い、ボヘミア北部からアンドレアス・ハディク英語版率いる偵察軍1万7千を派遣した。ハディクはハインリヒ軍を追跡しつつ進軍、7月22日にラウジッツのツヴィッカウに侵入した[4]

行軍

カイ(パルツィヒ)の戦いの戦場

エリザヴェータ女帝の命令にもとづき、サルティコフは1759年6月から着々と行ってきたプロイセンへの進軍をさらに継続した。ロシアの軍勢を7万とする文献もあるが、もっと現実味のある見積もりとして4万1千とする文献もある。同様に、フリードリヒ2世はドーナ将軍にロシアの進軍を止めるよう命令した。このとき、ドーナ軍は2万6千人で騎兵も数個中隊あった[1]

7月中旬、サルティコフとドーナは互いに対する陽動に1週間を費やしたが、その間もサルティコフはプロイセン国境に接近した。14日、彼は南西のオーデル川、クロッセンドイツ語版グローガウの間に向かい、19日にシレジアとの境界にあるチューリッヒアウに着くと数日間休息をとった[5]

プロイセン軍はというと、フリードリヒ2世はドーナを更迭して、カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル英語版をその後任に据えた[6]。ヴェーデルは20日に着くとチューリッヒアウでロシア軍の行き道をふさぎ、オーデル川への進軍を阻止した。彼は翌日に攻撃を仕掛けようとしたが、ロシア軍の弱点を上手く見つけられなかった[5]

20日、サルティコフは軍の一部をカイとチューリッヒアウに向かわせ、自らはオーデル川でプロイセン軍のクロッセンとフランクフルト (オーダー)との連絡線を切断した。この時点でロシア軍はカイの高地と、モズフ英語版にあるもう一つの高地を占領していた[6]。ロシア軍の地理的な優位はこれだけではなかった。アイヒミューレン=フリース(ドイツ語: Eichmuehlen-Fliess)という小川がカイの東で低地にある沼地を流れており、渡河できる場所が少なかった。1つはパルツィヒの東にある道で、ロシア軍中央と相対しており、まず無理であった。もう1つはカイの南であり、ロシア軍右翼への突撃が成功すると渡河は可能であった。では突撃が現実的であるかというと、ロシア軍が全軍を出撃させなければ可能、というのがヴェーデルの考えであった[5]。23日、ヴェーデルはサルティコフ軍を偵察して、行軍中であることを確認した。ヴェーデルはフリードリヒ2世から直に「いい陣地」を確保する、そして「望ましい攻撃手段」を使う命令を受けていた。フリードリヒ2世の命令での「いい陣地」とは守備に優れた陣地を意味し、「望ましい攻撃手段」とは斜行戦術英語版を意味していた。ヴェーデルは大王の信任を維持するためにはサルティコフ軍がフランクフルトに進軍する前に戦闘にもちこむ必要があると認識し、進軍を命令した[6]。この時点でヴェーデルのとれる最良の戦略はロシア軍より先に高地のパルツィヒを確保することであり、パルツィヒの確保にはカイを通るのが一番良い方法であった[5]

戦闘

プロイセン軍は2列でカイに向けて行進したが、カイを囲んでいる峡谷を抜けるやいなやロシア軍散兵との戦闘がはじまった。ロシア軍散兵の小部隊は撃退されたが、その援軍が来たことでそのまま全面的な戦闘に雪崩れ込んだ[7]。続いてロシア軍はカイのまわりの高地からプロイセン軍を砲撃した。ハインリヒ・フォン・マントイフェル英語版将軍は6個大隊を率いて砲台を攻撃したが、はじめは撃退された。戦闘に参加していた1人はマントイフェルが攻撃を成功させて大砲40門を鹵獲したとしている[7]が、公式記録には残っていない[8]。その午後には突撃が3回行われ、いずれも撃退された[9]

マントイフェルは1回目の突撃で負傷した。ヴェーデルは騎兵に密林を抜けてサルティコフ軍右翼へ総突撃するよう命令したが、サルティコフ軍が多勢であることもあいまって反撃に遭い、増援が遅れたことで攻撃は失敗した[10]。高地にあるロシア軍に向けて何度も突撃したプロイセン軍は大損害を負い[1]、最後の突撃ではモーリッツ・フランス・カジミール・フォン・ヴォーバースノー率いる8個大隊とチューリッヒアウからの6個戦隊がサルティコフ軍右翼を猛攻、同時に騎兵がサルティコフ軍の歩兵隊への突入に成功したが、ロシア騎兵が砲火の援護もあってそれらを全て撃退、ヴォーバースノーも戦死した[11]

その後

マントイフェルは1回目の突撃で負傷、ヴォーバースノーは最後の突撃で戦死した[7][11]。ヴェーデル軍は8千人以上を失ったが、フリードリヒ2世は自軍の損害を約800、ロシア軍の損害を約7千として発表した。フリードリヒ2世はプロイセン軍が自殺に近い突撃を何度も行ったにもかかわらず、臆病なならず者であると罵った[12]。彼は再度の概算でプロイセン軍損害1,400、ロシア軍損害14,000という数字を出したが、単に自分を騙していただけだった[13]

カイを落としたことでサルティコフ軍のオーデル川への進軍を阻める者がいなくなり、彼は28日にクロッセンに到着した。しかし、オーストリア軍との相互不信でサルティコフはそこで行軍を止め、プロイセン領に侵入しなかった。サルティコフとダウンはお互いを信じられず、ドイツ語を話せなかったサルティコフは通訳すら信用できなかった。フリードリヒ2世は7月のはじめにザクセンを離れており、ハインリヒも北上してきたため、どちらもダウン軍とサルティコフ軍の合流を阻む可能性があり、単独で戦うとダウン軍が全滅する可能性もあった。このため、ダウンは自軍ではなくラウドン率いる予備軍を派遣してサルティコフと合流させた。サルティコフはこの報せを聞くと、ダウンは優柔不断で事を引き延ばしていると断じた。ハディク軍とラウドン軍は7月29日にゲルリッツから北40キロメートルのプシェヴス英語版で合流した。ほぼ同時、ダウンはラウドンにさらなる増援を送った。このときの増援はオーストリア軍の最良の部隊であった。ダウンはラウドンがオーデル川に着くころにはその軍勢が少なくとも2万はあると概算した。8月3日、サルティコフ軍はフランクフルトを占拠、本軍を市外のオーデル川東岸で野営させた[14]。翌週、ハディク軍とラウドン軍はクーネルスドルフでサルティコフと合流した[15]

サルモネラ (Salmonella) とは、グラム陰性通性嫌気性桿菌の腸内細菌科の一属(サルモネラ属)に属する細菌のこと。主にヒトや動物の消化管に生息する腸内細菌の一種であり、その一部はヒトや動物に感染して病原性を示す。ヒトに対して病原性を持つサルモネラ属の細菌は、三類感染症に指定されている腸チフスやパラチフスを起こすもの(チフス菌 S. Typhiとパラチフス菌 S. Paratyphi A)と、感染型食中毒を起こすもの(食中毒性サルモネラ:ネズミチフス菌S. Typhimuriumや腸炎菌S. Enteritidisなど)とに大別される。食品衛生の分野では、後者にあたる食中毒の原因となるサルモネラを特にサルモネラ属菌と呼ぶが、一般には、これらを指して狭義にサルモネラあるいはサルモネラ菌と呼ぶこともある。細胞内寄生性細菌であり、チフス菌やパラチフス菌は主にマクロファージに感染して菌血症を、それ以外の食中毒性サルモネラは腸管上皮細胞に感染して胃腸炎を起こす性質を持ち、この細胞内感染がサルモネラの病原性に関与している。

Salmonellaという属名は、1885年アメリカでサルモネラ属の基準株であるブタコレラ菌 (S. Choleraesuis) を発見した細菌学者、ダニエル・サルモン英語版にちなんで名付けられた。ただし、サルモネラ属に属する細菌の分離はそれ以前から行われており、ヒトに対する病原性サルモネラとして最初に分離されたのはチフス菌 (S. Typhi) である。チフス菌は1880年カール・エーベルトにより命名され、1884年ゲオルク・ガフキーがその純培養に成功した。


サルモネラ属


SalmonellaNIAID.jpg
Salmonella enterica
分類
ドメ
イン
: 真正細菌 Bacteria
: プロテオバクテリア門
Proteobacteria
: ガンマプロテオバクテリア綱
Gammaproteobacteria
: エンテロバクター目
Enterobacteriaceae
: 腸内細菌科
Enterobacteriaceae
: サルモネラ属
Salmonella
学名
Salmonella
Lignieres 1900
  • S. enterica(タイプ種)
  • S. bongori
  • S. subterranea

本項では、オーストラリアの歴史(オーストラリアのれきし)について記述する。

地理的に他の大陸から隔絶されたオーストラリアは、長きにわたって西洋文明の影響を受けずにいたが、度重なる航海の結果、その存在はヨーロッパの人々の知るところとなった。はじめ流刑植民地とされた同地は、1851年発見以来、一攫千金を夢見る多くの人々を惹き付けた。こうした過程で侵略者と先住民の、あるいは侵略者や移民同士の軋轢を経験しつつ、オーストラリアはヨーロッパ人侵略し植民地にした国から連邦国家へと変貌を遂げるに至った。

連邦成立後は、旧宗主国イギリスと新興国アメリカ合衆国との狭間で揺れながらも独自性の模索を続け、主にアジア地域との関係強化を図っている。


前史

アボリジナルの壁画

約5万年前、更新世末期のオーストラリア大陸は、現在に比べて海水面が100m以上低かったため、ニュー・ギニア島タズマニア島を包含していた。また、ジャワ島スマトラ島ボルネオ島アジアと地続きになり、スンダランド (Sundaland) の一部を構成していた。このため、両者を分かつ海域は現在に比して狭く、航行も比較的容易であった。オーストラリア先住民、いわゆるアボリジナル (aboriginal) はこの頃、スンダランドからを渡ってオーストラリアに到来したものとみられている。アボリジナルは長くオーストラロイドに分類されてきたが、遺伝子の分析や頭蓋骨の測定の結果から、広義のモンゴロイドに属するとの見方が浮上し、オセアニア系モンゴロイドに分類されるようになった[1]。さらには従来の「人種」の概念を否定したより新しい人類集団の分類では、ニューギニアのパプア人と同じくサフール人に分類され、広くは従来モンゴロイドとされた東ユーラシア人(東・東南アジア人)及び南北アメリカ人(アメリカ先住民)と共に「環太平洋人」とする新しい学説もある。

更新世以後長きに亘り、オーストラリアの歴史はアボリジナルの歴史となるが、詳しいことは判っていない。遺構から発見された人骨洞穴に描かれた絵画、語り継がれた神話から推し量る以外に術はない。オーストラリアが歴史の舞台に現れるのは、西洋人との接触の時代まで待たねばならない。

2世紀に描かれたプトレマイオスの世界地図が示すように、西洋の人々は古くから、南方に大陸が存在するとの考えを持っていたようであるが、彼らがオセアニアの海域に到来するのはいわゆる大航海時代になってからのことである。

侵略の序章

1588年にスペイン無敵艦隊が敗れてから、凋落したスペインに代わってオランダポルトガルイギリスフランスが東洋での覇権争いに名乗りを上げた。

1606年にスペイン人ルイス・バーエス・デ・トーレス (Luis Váez de Torres) はニュー・ギニア島との間の海峡を航海した。大陸発見には至らなかったが、この海峡は彼の名を取って「トレス海峡」と呼ばれるようになった。

オランダ人アベル・タスマン (Abel Janszoon Tasman) は1642年、西海岸を回って南部に達してタスマニア島を発見し、さらに東進してニュージーランドを発見した。のちの植民地時代、タスマンの命名に従い、前者は「ヴァン・ディーメンズ・ランド (Van Diemen's Land) 」、後者は「ステイテン・ランド (Staten Land) 」と呼ばれた。

1644年の航海では、タスマンはニュー・ギニア島からトレス海峡を縦断し、オーストラリア北部の沿岸を周航した。しかし、航海の最大の目的である、有望な貿易商品(香料など)の発見は叶わなかった。

イギリスからは、海賊ウィリアム・ダンピア (William Dampier) が17世紀末に西海岸に上陸した。ダンピアの報告を受け、王立協会は改めて調査船を現地へ派遣した。

ジェームズ・クック

時代は下り1766年、イギリスはジェームズ・クック (James Cook) を船長とする観測隊をタヒティに派遣した。1769年6月3日、予定通り金星の太陽面通過を観測した一行は太平洋を南下した。10月7日にニュージーランドを発見した一行は、同地を探検したのち進路を西に変え、1770年4月20日にオーストラリア東海岸に到達。4月29日、シドニーの南方に位置するボタニー湾に上陸した。

クックは、大陸の東海岸一帯を国王ジョージ3世の名において領有すると宣言し、この地を「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名した。なお、クックが領有を宣言した範囲は現在のニュー・サウス・ウェールズ州よりも広く、現在のビクトリア州クイーンズランド州タスマニア州などを含んでいた。

植民地支配の本格化

流刑地

18世紀後半に至ると、イギリスはこの地の開発を本格的に進めるようになる。その目的は、先住民の迫害を伴う資源獲得や囚人対策と言われている。

1780年代のイギリスは、エンクロージャーによる土地喪失者、産業革命による失業者などが都会に集まって犯罪者の数が激増した。微罪に問われた者でも収監する法制度もあいまって国内の監獄は満員となり、囚人を収容しようにも余裕がなくなる事態となった。加えて1776年のアメリカ独立は、巨大な流刑地の喪失を意味していた。流刑地の確保は、政府にとって重要課題だったのである。

当初は、比較的イギリスに近いカナダや西アフリカが候補地として挙がっていたが、カナダは寒冷地であるため、また西アフリカは疫病に罹患する恐れがあるため対象から外され、その結果ニュー・サウス・ウェールズが選ばれた。政府は、退役海軍将校アーサー・フィリップ (Arthur Phillip) を初代総督に任命し、植民地建設に当たらせた。

フランシス・フォークスによるシドニー・コーブの概略図(1788年)。北は右側になる。現在では入り江の右下にはシドニー・オペラハウスが建設されている場所に該当する。

1787年5月13日、フィリップ率いる第1船団 (first fleet) 11隻は、1500名弱の人員(うち流刑囚約780名)を乗せてポーツマスを出航し、翌1788年1月18日にボタニー湾に到着した。その後、より入植に適した土地を求めて、北に12キロメートルのポート・ジャクソン湾内のシドニー・コーブを発見した。1月26日に上陸、この地のイギリスによる領有を宣言し、入植を開始した。これを記念して、1月26日は「オーストラリアの日 (Australia Day) 」と呼ばれる祝日となっている。1790年6月に、第2船団英語版6隻が、1791年7月から10月にかけて第3船団英語版10隻が到着し、徐々に開発が進められた。この過程で、入植者がアボリジナルを襲撃したり、逆にアボリジナルが入植者を殺害するといった事件が発生した。

入植開始時に、治安維持のため囚人らと共に到来した「ニュー・サウス・ウェールズ軍団 (New South Wales Corps) 」と呼ばれる将校らは、公有地を私有化した上、富裕層と結んで船荷の購入を独占した。未だ必需品を自給できない当時にあって、彼らは輸入貿易を押さえることにより利益を壟断した。また、通貨が普及していなかったことを利用し、輸入したラム酒を通貨の代わりとして巨利を得た。

イギリスは、エマンシピスト(刑期を終えた囚人)や自由移民に若干の土地を無償供与し、独立自営農民とする社会の建設を企図していたが、その目論見は早くも崩れ、富の偏在が進んだ。これを是正しようとした総督は富裕層と対立し、次々とその座から降ろされた。

日本との貿易を開けるのにアメリカの北西海岸の毛皮を使用する試みを支えることは1788年にニュー・サウス・ウェールズ州に英国の植民地を確立するための理由の一つだった。イギリス商人は、1785~1795の十年間に、サー・ジョゼフ・バンクス王立協会会長によって励まされ、彼らの政府によって支えられたと、この貿易を開発する粘り強くこの試みを試みた。但し、領域及び北太平洋の航行の長い間にした要求を断固に守るために、スペインは定められた。また、日本は鎖国政策に頑固に維持した。この対立に直面して、イギリス商人の希望及び努力は終に水泡に帰した。[2]

ラム反乱

1806年に総督に着任したウィリアム・ブライ (William Bligh) は、ニュー・サウス・ウェールズ軍団の専横を断つべく、大鉈を振るった。即ち、軍団の収入源たるラム酒を決済手段として使用することを禁じたのである。しかし、軍団の元将校ジョン・マッカーサーら現地の有力者がこれに反発。ニュー・サウス・ウェールズ軍団も同調した。1808年1月、少佐ジョージ・ジョンストン (George Johnston) 率いるニュー・サウス・ウェールズ軍団は総督府を襲撃し、拘束したブライを1年余りにわたって幽閉した。これを「ラム反乱 (Rum Rebellion) 」と呼ぶ。

副総督を自称したジョンストンは、同年7月まで植民地の実権を掌握した。その後も政権は反乱者側の手にあったが、イギリス本国から派遣されたラクラン・マクォーリー (Lachlan Macquarie) が1810年に総督に就任して、事態はついに収まった。ジョンストンとマッカーサーは本国で軍法会議に掛けられ、マッカーサーは事実上の無罪とされたが、ジョンストンは官職を剥奪され、ニュー・サウス・ウェールズ軍団は本国に召還された。以後マクォーリーは、決済手段としての通貨の流通を図ると共に、病院や道路、銀行の建設を推進して生活環境の向上に務めた。

侵略・植民地主義

オーストラリア各州の形成と変遷

入植当初のイギリス領は大陸東部、より具体的には東海岸から東経135度線に至る地域や周辺の島嶼部であったが、1825年に東経129度まで拡張され、1827年に全大陸が包含された。

ジョージ・バス (George Bass) とマシュー・フリンダース (Mathew Flinders) が1795年から行った調査は、ニュー・サウス・ウェールズ沿岸の地図の作成に貢献した。フリンダーズは地図製作に当たり、古代ギリシア人ローマ人が存在を信じていた「テラ・アウストラリス・インコグニータ(Terra Australis Incognita:「南方の未知なる大陸」の意)」にちなみ、「オーストラリア」の名をイギリス海軍省に提案した。

シドニー周辺に始まる奥地の探検は、ブルー山脈を越えることから始まった。グリゴリー・ブラックスランド、ウィリアム・ローソン (William Lawson) 、ウィリアム・チャールズ・ウェントワース (William Charles Wentworth) の3名は1813年、同山脈の先に広がる平野を発見した。これを契機に内陸開発が進められ、その拠点となる都市として、この平野にバサーストが建設された。

肥沃な大平野の発見は、牧羊業の勃興を促した。この頃イギリス毛織物業界は、原料の羊毛をヨーロッパ大陸から輸入していたが、オーストラリアはメリノー種のを大陸の風土に合うよう改良して良質の羊毛を産した。ラム反乱の黒幕・マッカーサーは、牧羊業で財を成した人物の代表格である。

牧羊業は1834年、それまでの基幹産業たる漁業を上回るまでに成長した。欧米と隔絶したオーストラリアにあって、高額な輸送料を払ってなお採算の取れる商品は羊毛程度しかなかったという事情もあり、羊毛の輸出額は、19世紀半ばにはオーストラリアの輸出総額の半分を超えた。イギリスでは、輸入される羊毛の過半をオーストラリア産のものが占めた。

牧羊に必要な土地は、未開の公有地を無断で開拓する、いわゆるスクォッティング(squatting:「座り込み」「無断居住」の意)の横行によってもたらされた。総督府は居住地制限を実施したが効果はほとんどなく、現状を追認せざるを得なかった。

こうした開発は、アボリジナルとの間に流血の抗争を生んだ。その一方で、入植者との混血も進んだ。タスマニア島では、アボリジナル女性トゥルガニニが1876年5月に死去したことをもって、「純血」のアボリジナルは絶滅したとされる。

流刑植民地としての大陸の性格にも変化が現れた。タズマニアが1825年にニュー・サウス・ウェールズから分離したのを皮切りに、西オーストラリアやヴィクトリア、クィーンズランドが、それぞれ独立の植民地となった。これと並行して、総督による統治権の制限や、立法機関や行政機関の設置を要求する声が強まり、各植民地に評議会が設置された。1840年から1868年にかけて、全植民地が流刑制度を廃止した。

黄金発見と社会変革

ゴールド・ラッシュと白豪主義の強化

1851年、エドワード・ハーグレイヴス (Edward Hammond Hargraves) がシドニーの西北西約260km地点のルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見した。これを聞き付けた人々が大挙して押し寄せたのを切っ掛けに、アメリカに次ぐゴールド・ラッシュが発生した。

大量の労働者が金鉱地へ流出したメルボルンでは市の機能が麻痺しかけ、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどであった。この結果、バララットベンディゴーなどの金鉱が新たに発見され、人々の採掘熱はさらに高まった。

国家体制の未成熟なオーストラリアで発生したゴールド・ラッシュが与えた影響は、アメリカのそれに比べて遥かに大きかった。黄金の魅力に憑かれた人々が世界中から集まり、1851年時点で437,665人であった人口は、1861年には1,168,149人にまで激増した[3]。中でも、最大級の外国人集団となった中国人の存在は欧米出身者らには脅威と映り、排斥運動に発展し、白豪主義の強化へと繋がっていく。

1854年、採掘者に対して重い採掘料を課すなどの規制に反発した鉱夫約150名が、ユーリーカ砦 (Eureka Stockade) に籠城した。12月、警察や兵が砦を攻撃し、約15分で反乱は鎮圧されたが、首謀者のほとんどは放免され、彼らの要求(普通選挙権の付与など)はほぼ全面的に認められた。

資本主義の発達

地表近くの金の採取量が激減すると、岩石中に含まれる金の採取が始まった。このような形での採取は、個人の手作業ではもはや不可能であり、急速に採掘の機械化が進んだ。金採取を諦めた人々の多くは、農業を行おうにも大半の土地が既に占有されていたことから、都市に集まって職を求めた。彼らが低賃金労働に甘んじた結果、人件費が抑えられ、製造業の競争力は高まった。また、人口増加による住宅需要の高まりは不動産業の発展を促した。

オーストラリアは、世界の主要市場から遠く離れていることや水が不足していることなどにより、経済はアメリカほど急速には発展してこなかった。入植初期には海豹の皮革や鯨肉、羊毛などの一次産品を輸出して、工業製品を輸入する構造が続いた。しかし羊毛価格の急落や旱魃で羊毛業が打撃を受けたのに対し、ゴールド・ラッシュ以降は金のみならず、亜鉛などの鉱業が発展した。これを背景に、鉄道網や電信網などの産業基盤が整備された。

第一次産業にも進展がみられた。ユージン・ニコル (Eugene Nicolle) らが冷凍装置を備えた輸送船を開発したことにより、食肉の輸出が盛んになった。また、ウィリアム・ファラー (William Farrer) は誘病と旱魃に強い小麦の開発に成功した。

秋葉原通り魔事件(あきはばら とおりまじけん、英語: Akihabara massacre)とは、2008年(平成20年)6月8日に東京都千代田区外神田(秋葉原)で発生した通り魔殺傷事件。7人が死亡、10人が負傷(重軽傷)した。
マスメディアや本件に言及した書籍においては秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれることが多い。

この犯人とされる加藤智大被告ですが、幾つか不可解な点があります。

7人を殺したのに、手にも衣服にも返り血がついていない?

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頭から血を流しているのは、警察官に棍棒で殴られたため。

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ナイフにも血のついている様子はない。

一方、被害者は血まみれ。
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■3分間で加藤智大一人が17人を殺傷するのは不可能ではないのか?
すでに死刑判決が出てしまっているが、加藤自身は「3人以外に刺した記憶しかない」と述べている。

死亡者
中村勝彦さん(74) 左背中刺創 慈恵医大 東京都杉並区 無職・元歯科医
藤野和倫(かずのり)さん(19) 腹部打撲? 三井記念病院 埼玉県熊谷市 大学生(東京電機大 * )
小岩和弘さん(47) 背部刺創 東京女子医大 東京都板橋区 無職
川口隆裕さん(19) 腹部打撲 国際医療センター 千葉県流山市 大学生(東京情報大 * )
宮本直樹さん(31) 胸部貫通刺創 墨東病院 埼玉県蕨市 会社員
武藤舞さん(21) 失血死 東京医科歯科大 東京都北区 大学生(東京藝術大 * )
松井満さん(33) 背部刺創 駿河台日大 神奈川県厚木市 調理師

負傷者
男性(53)=警察官 胸・重傷 東大病院
森早苗さん(24) 肺腎臓損傷・重傷 東京医科歯科大 静岡県焼津市 会社員
平松新さん(53) 腰・重傷 東京医科歯科大 兵庫県神戸市
男性(43) 脊髄損傷・重傷 聖路加病院 埼玉県新座市 会社員
男性(27) 背部刺創・軽傷 日本医科大
女性(30) 腹部刺創・重傷 聖路加病院
湯浅洋さん(54) 右胸刺創・重篤 日本医科大 タクシー運転手
男性(28) 右前腕切創・軽傷 厚生年金病院 埼玉県ふじみ野市 会社員
男性(28) 腰の痛み・軽傷 白髭橋病院 埼玉県
男性(19) 擦過傷・軽傷 三井記念病院 埼玉県

刃渡り13cmのダガーナイフでこれだけの人を刺し7人殺傷しているが、亡くなられた宮本直樹さんは胸部貫通によって亡くなられているのだが、13cmのダガーナイフでそれは不可能だと思う。

考えられるのは、別の加藤智大が存在しており、もう一人の加藤、つまり真犯人は、小太りで団子鼻の男だったといわれています。

謎は深まるばかりでございます(鈴木健二)。

イトカワ(糸川、いとかわ、25143 Itokawa)は、太陽系小惑星であり、地球に接近する地球近傍小惑星(地球に近接する軌道を持つ天体)のうちアポロ群に属する。

概要

イトカワは近日点が地球軌道の内側に入る、アポロ群の地球近傍小惑星である。地球軌道との最小距離が小さく、半径も160メートルあるため、潜在的に危険な小惑星 (PHA) にも分類されている。スペクトル型からS型小惑星に分類される[2]。日本の小惑星探査機工学実験宇宙機はやぶさ (MUSES-C)の目的地に選ばれ、2005年9月からの約1ヵ月半、はやぶさに搭載された可視光分光撮像カメラ、近赤外線分光器、レーザー高度計、蛍光X線分光器の4つの観測機器による詳細な探査が行われた。そして2005年11月には、イトカワ表面の岩石試料を採取して地球へ持ち帰るサンプルリターンを行うため、はやぶさは2度の着陸を行った[3]

イトカワは平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、これはこれまで惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体である[4]。はやぶさは2010年6月に地球へ帰還し、同年11月にははやぶさのカプセルコンテナ内にイトカワの微粒子が多数存在することが明らかとなり、その後イトカワの微粒子についての分析が進められている。

はやぶさによるイトカワの探査と地球へ持ち帰った試料から、これまで知られていなかった小さなサイズの小惑星について様々な知見がもたらされている。まずイトカワの質量と体積から考えて、内部の約40パーセントが空隙であると考えられ、イトカワは瓦礫を寄せ集めたようなラブルパイル天体であると考えられた。またイトカワの分光観測と岩石試料から、イトカワは普通コンドライトの中のLL4、LL5、LL6というタイプの隕石と同様の物質で構成されていることが判明した。そしてイトカワ表面の物質は宇宙風化を起こしていることが明らかとなり、地球上に落下する隕石の約8割を占める普通コンドライトの多くが、S型小惑星を起源とすることが明らかとなった。

また直径20キロメートル前後の母天体が大きな衝突によって破壊され、その瓦礫が再集積することによって現在のイトカワが形成されたと考えられること、重力が極めて弱いイトカワでは、表面の物質が惑星間空間に逃げ続けていると見られることなどが判明した。

発見とはやぶさの目的地に選定

イトカワは1998年9月26日アメリカニューメキシコ州ソコロマサチューセッツ工科大学リンカーン研究所地球接近小惑星研究プロジェクト (LINEAR) により発見された。発見後、 1998 SF36という仮符号が付けられ、軌道要素確定後に25143番小惑星とされた。

第三の候補

イトカワが発見された当時、日本宇宙科学研究所では、1995年8月に宇宙開発委員会で正式承認された小惑星探査機(工学実験宇宙機)はやぶさ(MUSES-C) の開発が進められていた。計画開始当初はMUSES-Cの探査対象である小惑星はネレウスとされ、打ち上げは2002年1月の予定であった。またネレウスのバックアップ天体として1989 MLが用意された[5]。しかし探査機の設計が進む中で重量的にネレウスに向かうことが困難であることが明らかとなったため、1999年8月にはバックアップ天体の1989 MLへ目的地が変更となり、打ち上げ時期も2002年7月へと変更された[6]

ところが2000年2月10日、宇宙科学研究所の科学衛星用ロケットであるM-Vロケット4号機の打ち上げが失敗した。失敗原因を分析し、対策を講じていく中で、MUSES-Cは予定通りに打ち上げを行うことが不可能であることが明らかとなった。MUSES-Cの目標天体であった1989 MLは、2002年7月の機会を逃すと次回打ち上げが可能となるのが5年後の2007年となってしまう。打ち上げが大きく延期されることにより、これまでMUSES-C計画を進めていくに際してアメリカと締結していた協力関係が維持できなくなり、アメリカが独自に小惑星探査機を打ち上げる方針に転換することも考えられることから、1989 MLをMUSES-Cの目標天体とすることは困難となった。そこで改めて候補天体を検討した結果、第3の候補として1998 SF36が、2002年11月から12月ないしは2003年5月の打ち上げでMUSES-Cが到達可能な小惑星として浮上してきた[7]

MUSES-Cの目標天体となる

1998 SF36がMUSES-Cの第3の目標天体として浮上する中で難題が持ち上がった。既にMUSES-Cの製作はかなり進行しており、推進剤タンクの製作も終了していた。MUSES-Cの目標天体であった1989 MLは1998 SF36と比べて到達に必要なエネルギー量が低く、1989 ML用に完成していたMUSES-Cの推進剤タンクの能力では1998 SF36に到達することが不可能であった[8]

MUSES-Cが1998 SF36に到達することが可能な手法について検討を進めていく中で、EDVEGA(Electric Delta-V Earth Gravity Assist)と命名されることになる、イオンエンジンと地球スイングバイを組み合わせた新たな軌道技法が編み出された[9]。スイングバイは探査機を天体に会合させ、その天体の引力を用いて探査機の進行方向の変換を行うとともに、天体の公転運動を利用して探査機の加速、減速を行う技法であるが、EDVEGAでは比推力が大きく、長時間をかけた加速に優れた能力を発揮するイオンエンジンを、探査機の軌道離心率を大きくするように噴射して軌道変更を行い、地球との軌道離心率の差という形でエネルギーを蓄え、地球との再会合時の経路角差によって生じる地球との相対速度からエネルギーを取り出す軌道技法である[10]

MUSES-CはEDVEGAを用いることにより、探査機重量に換算して25-30キログラムの軽量化がなされた形となり、1998 SF36へ向かうことが可能となった[11]。またEDVEGAを用いた軌道計画には他にも優れた点があった。まず太陽電池を用いて電力供給を行うMUSES-Cにとって、地球軌道近辺でイオンエンジンを駆動させながら軌道変更を行うことは、安定した電力供給を受けながらイオンエンジンを駆動せることが可能であるため都合が良かった[12]。そしてMUSES-Cの打ち上げは2002年11月から12月以外に2003年5月にもチャンスがあり、打ち上げ機会の複数化というメリットがあった。また打ち上げた地球へいったん戻ってくる特異軌道と呼ばれる軌道を取るため、地球脱出の速度が多少ずれても地球スイングバイの実施が可能である利点もあった[13]。こうして2000年7月の宇宙開発委員会で、MUSES-Cは第三の候補である1998 SF36を目指すことが決定された[14]

出発までの苦闘と1998 SF36の観測

MUSES-Cは1998 SF36を目指すことが決定したものの、出発までにまだまだ苦闘は続いた。まず問題となったのが北半球のアメリカユタ州の砂漠地帯に帰還する予定であったMUSES-Cの帰還カプセルであったが、1998 SF36の軌道傾斜角の関係上、南半球に帰還しなければならないようになった。アメリカとの協力関係を構築していく中で、アメリカユタ州への帰還時に全面的なバックアップを受ける予定であったものが、南半球への帰還が必要となった時点で協力関係の枠組みが崩れそうになった。結局アメリカ側との再協議が行われ、1998 SF36からのサンプルの10パーセントをアメリカ側に渡すという当初の約束をそのまま維持した上、MUSES-Cによる1998 SF36観測へのアメリカ側からの参加機会の確保や、1998 SF36からサンプルリターンされた試料の初期分析に携わる科学者やアドバイザーをアメリカ側からも受け入れる等の合意がなされ、協力関係は維持されることになった[15]

また2001年には地球に接近した1998 SF36の光学およびレーダー観測が行われた。その結果、1998 SF36は約300×600メートルの楕円形をしたS(IV)型の小惑星であり、自転周期は約12時間であることが判明した。MUSES-Cは小惑星にタッチダウンしてサンプル採集を行う探査機であるため、あまり小惑星の大きさが小さかったり、また自転周期が早すぎるとサンプル採集が困難となるが、1998 SF36の大きさと自転周期はサンプル採集に支障がないものと判断された[16]

一方、1998 SF36へ向かうMUSES-Cの製作は難航していた。特に小惑星と探査機との距離をレーザー光線で測定する、LIDARという機器の開発が難航した。また2002年4月に発生したMUSES-Cの高圧ガス系の気密を保つためのOリングという部品の破損事故の際、Oリング自体が仕様と異なる材質で作られていることが判明し、それらの対策に日時を要したため、2002年9月になって2002年12月のMUSES-Cの打ち上げは断念し、ラストチャンスである2003年5月に打ち上げられることが決定した[17]

イトカワと命名される

2003年5月9日、内之浦宇宙空間観測所からM-Vロケット5号機によってMUSES-Cは打ち上げられ、はやぶさと命名された[18]。打ち上げ後、はやぶさはEDVEGAを用いて1998 SF36を目指すため、5月末からイオンエンジンの運転を開始した[19]。そして宇宙科学研究所ははやぶさの目的地である1998 SF36に、日本のロケット開発の父・糸川英夫の名前を付けるよう命名権を持つ発見者のLINEARに依頼した。LINEARはこれを受けて国際天文学連合に提案、2003年8月6日に承認されて「ITOKAWA」と命名された[20]2004年5月19日には、はやぶさはEDVEGAによる地球スイングバイを成功させ、秒速30キロメートルから34キロメートルへと増速がなされ、予定通りイトカワへ向かう軌道に乗った[21]

しかしはやぶさの行程は順調なことばかりではなかった。2003年11月4日に発生した大規模な太陽フレアの影響で、はやぶさの太陽電池が劣化したことにより発電能力が低下したため、2005年6月の予定であったイトカワへの到着時期を3か月遅れの9月にせざるを得なくなった。そこではやぶさのイトカワ出発時期も2005年10月の予定から12月へと変更された[22]

2004年、イトカワは再び地球に接近し、プエルトリコアレシボ天文台電波望遠鏡によってレーダー観測が行われ、ジャガイモ状をした大まかな形状が明らかとなった[23]

はやぶさによる観測

第61回国際宇宙会議で展示されたはやぶさの模型。

はやぶさが地球を出発してから2年余りが経過した2005年7月29日、イトカワがあると考えられる方向の撮影が行われた。撮影は翌30日、8月8、9日、12日と続けられ、イトカワの位置を確認した。イトカワは直径500メートル程度の小さな天体であるため、探査機が通常用いる地上からの電波を利用する軌道決定法に、イトカワを撮影した画像からの光学情報を加味して、高精度の軌道決定を行うことによって、はやぶさは正確にイトカワへ向かうことが可能となった[24]。そのような中、はやぶさの姿勢制御に用いられるX軸用のリアクションホイールが故障により機能を停止した[25]

2005年9月12日、はやぶさはイトカワから約20キロメートルのゲートポジションに到着し、イトカワの観測を開始した[26]。その後9月20日には約7キロメートルのホームポジションへ進み、そして10月8日から30日にかけて、ホームポジションから東西南北の各方向や高度3-4キロメートルの低高度へ移動しながらイトカワの観測を続けた[27]。2005年9月から10月にかけて、はやぶさは搭載された科学観測機を用い、可視光での撮影、近赤外線スペクトルの測定、レーザー高度計による測地、および蛍光X線の観測を行った[28]。しかし10月2日にはX軸に続きY軸用のリアクションホイールが故障により機能を停止し、はやぶさに残されたリアクションホイールはZ軸用のもののみとなった[29]

2005年11月に入ると、はやぶさは小惑星表面の物質のサンプルリターンを試みることになった。はやぶさによるイトカワの観測の中で、着陸候補地としてアルコーナ地域、ミューゼスシー地域と呼ばれる場所が候補として挙げられていた[30]。11月4日の初回の降下リハーサルでは、当初予定していたイトカワ表面への降下誘導方法が上手く機能せず、イトカワ表面から約700メートルの場所で中止となった[31]。続いて2度目のリハーサルは11月9日に行われ、降下誘導方法の改良が試験された。11月4、9日に行われたリハーサル時にアルコーナ地域とミューゼスシー地域の詳細な画像から、アルコーナ地域には多くの岩塊があって、はやぶさの着陸地点に向かないことが判明し、はやぶさの着陸予定地は、岩石が少なからず見られ着陸にリスクはあると判断されたが、ミューゼスシー地域に絞られることになった[32]

11月12日には三回目のリハーサルが行われ、近距離レーザー距離計の較正、そしてイトカワへの着陸を行うために新たに考案された航法のテストが行われ、さらにホッピングロボット「ミネルバ」の放出が行われた。しかしミネルバはイトカワへの投下に失敗し、ミネルバによるイトカワ表面の観測は行うことが出来なかった[33]

2005年11月20日、はやぶさはイトカワへの着陸を試みた。この時はやぶさは着陸寸前まで順調に航行していたが、着陸寸前にイトカワ表面に障害物があることを検知したことがきっかけとなって、はやぶさは自動的に着陸を中止しようとしたが、着陸寸前であったために既に姿勢をイトカワ表面に合わせていたため、スラスター噴射を行うことによるイトカワからの離脱を選択せず、そのまま自由落下をする形となってイトカワに着陸した。この時は地上からの指示が出るまでの30分あまり、はやぶさはイトカワ表面に止まっていた。計画でははやぶさはイトカワ表面にタッチダウンした際、サンプラーホーンというサンプル採取用機器の弾丸を発射することによって表面の物質を採取する予定であったが、いわばイトカワに不時着する形となった初回の着陸では弾丸は発射されなかった。しかしイトカワ表面の重力が極めて弱いため、イトカワに着陸していた30分あまりの間にサンプルキャッチャー内にイトカワ表面の微粒子が入ったことが期待された[34]

2005年11月26日、はやぶさは2度目のイトカワ着陸を試みた。はやぶさは順調に航行し、予定通りイトカワにタッチダウンに成功し、イトカワからの離脱も行われた。しかし後に2度目の着陸時もコンピューターのプログラムミスが原因で、サンプラーホーンの弾丸は発射されなかった[35]

その後はやぶさは燃料漏れが原因で姿勢を大きく崩し、一時通信が途絶えるなど数多くの困難に見舞われ、地球帰還も当初の予定の2007年から2010年6月になったが、2010年6月13日、無事に地球への帰還を果たした[36]

はやぶさによるイトカワ探査では、観測期間が2005年9月から11月にかけての約2か月半と短かったことにより探査機の運用に余裕がなく[37]、姿勢制御用のリアクションホイールの故障により予定通りの観測が出来なくなった部分もあったが[38]、表面の写真を約1500枚、近赤外線分光器による8万以上のスペクトルデーター、約167万点のレーザー高度計による高度データー、さらには蛍光X線分光計によるスペクトルデーターを取得した[39]

またはやぶさによるイトカワの観測によって、イトカワの大きさは535 × 294 × 209 (± 1)m、自転軸は太陽系の黄道面にほぼ垂直で、太陽や地球と反対側に自転していること[40]、そして自転周期はほぼ半日の12.1324 ± 0.0001時間であることが明らかとなった[1]。またイトカワ周辺についても詳しく観測がなされた結果、イトカワには直径1メートル以上の大きさの衛星は存在しないことも明らかとなった[41]

南京事件(なんきんじけん)は、1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。戦後南京軍事法廷極東国際軍事裁判告訴された。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある(後述)。

この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。事件の真相はいまだ不明である[1][2][3]

2015年10月9日、ユネスコは中国の申請に対して「Nanjing Massacre (南京大虐殺)」資料を記憶遺産に登録した[4][5][6][注釈 1]


背景と経緯

上海戦から南京戦へ

1937年7月に始まった日中戦争で当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てた。その結果、8月に主戦場は上海に移った[7]。日本側も、中国に対して一撃を加えれば大人しく引き下がるものと考えており、暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)というスローガンを世論に利用し、対決姿勢をとる。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こった(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋爆撃)を開始し、国際社会より非難された[8]

8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠しとし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した[9]。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行ったり[10]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせたと秦郁彦は指摘する[11]

他方日本外務省は、10月に中国に駐在するドイツ人外交官のトラウトマンを仲介とする、トラウトマン和平調停工作を開始した。

中国軍の抵抗もあって、日本側は予想に反して苦戦を強いられたが、11月5日には杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より首都南京方面へと潰走した[12]上海戦は、日本軍に多くの戦死者を出し、日本軍人に中国軍への復讐感情を植え付けた[13]

11月7日に上海派遣軍第10軍とともに中支那方面軍(司令官:松井石根)として改編された。11月19日には第10軍が和平工作をすすめる軍中央の方針を無視して、その後上海派遣軍が、撤退する中国軍の追撃を独断で始め、首都南京への侵攻を目指した[14]。12月1日には軍中央が現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に南京攻略命令を下達する[15]

総退却した中国軍は11月の南京高級幕僚会議で、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に首都を南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。中国側は南京に防衛線(複郭陣地)を構築して抗戦する構えを見せた。敗走する中国軍は堅壁清野作戦で村や民家を焼き払った[16]

また追撃する日本軍は食糧などを途中の農村地域で略奪しながら進軍した[17]。南京に向かうまでの行程で農村部において日本軍による住民の殺害・強姦・強奪が発生するなどの軍紀の緩みがあった[18]。12月7日に松井石根司令官は略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を自軍に示していた。

日本軍が南京城に迫る中、蒋介石ら中国首脳部は南京防衛司令官唐生智と防衛軍を残して、12月7日に南京を脱出した。

日本軍は12月8日には南京を包囲し、12月9日に中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったために、日本軍は12月10日には攻撃を開始した。南京防衛司令官の唐生智12月12日に逃亡した。しかし、南京の中国軍の大半は組織的撤退を知らないか、知らされても安全に逃げられない状況であった。中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させる者もいたし、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門に仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれて撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)。12月13日には中国軍は総崩れとなり南京城は陥落した。陥落時には南京城の北側から長江の対岸へと逃げようとした非常に多くの兵隊・一般人が、舟もない中で渡河しようとして、大半が途中で溺れ死んだ[19]

南京市の概況

中山門

南京市は東西(中山門〜漢中門)約5.3km、南北(大平門〜中華門)約8kmで面積は35平方キロで茅ヶ崎市(35.70km2)程の大きさであり、城外の下関や水西門市街などを含めると39〜40平方キロで、鎌倉市(39.67km2)程の面積となる[20]

総人口

人口は南京戦以前は100万といわれるが、陥落前後の12月12〜13日の人口は推計20万から25万であったとスマイス調査は報告している[20]

安全区人口

またスマイス調査では、当時安全区には難民収容所には27,500人、収容所には入らない安全区内の人口は68,000人とされた[20]。12月17日の国際安全区委員発表では、難民区収容所人数は49,340〜51,340人であった[20]。16師団参謀長中沢三夫は13、14日の掃討戦で住民はほとんど見なかったが、12月末の居住証から推算すると当時の難民は10万内外とする[20]

南京事件の被害者

南京事件の被害者(南京の一般市民)

南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)

日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[21]。日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[22]

日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)[23]

南京安全区国際委員会のメンバーによるスマイス調査によると、南京市部(南京城区)での日本軍による民間人の殺害・拉致後殺害は計6千6百人と推測されたが、別途1万2千人という推測値も示している。

南京城市とその周辺ではなく、広大な農村部を中心とした地域においてもスマイス調査によると2万6千人以上の犠牲があったとされるが、これも南京事件の被害に含める見解もある(笠原十九司等)[24]

南京安全区

南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、ジョン・ラーベ、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれてた市民を救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。この安全区は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[25]

南京事件の被害者(中国兵)

中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦郁彦説(台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[26]。中国軍の敗残兵には軍服を脱いで民間人に紛れて安全区へ逃走をはかったものが多数あった[27]

交戦当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっていたし、第23条には、殺害などの害敵手段として禁止されていることとして、第3項「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」や敵兵に対して第4項「助命しないことを宣言すること」とされている。しかし、一方で、日本陸軍は同年8月に陸軍次官名でハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知していた。

以下は偕行社の『南京戦史』によるが、『南京戦史』は大雑把な目安にすぎなず正確ではないとしている[28]

進化論裁判(しんかろんさいばん)とは、アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことをいう。特に有名な裁判として1925年スコープス裁判1982年のアーカンソー州の授業時間均等法裁判などがある。

また1982年の裁判に関わった科学者のひとりであるナイルズ・エルドリッジの著作物の邦題でもある。

概要と背景

エデンの園アダムとイヴ:『創世記』には、アダムとイブはヤハウェによって創造されたと記述される。

進化論とキリスト教右派の対立は、科学宗教の対立としてしばしば取りあげられる。特にアメリカ合衆国における反進化論運動はその顕著な例として知られている。アメリカは伝統的に聖書を重視するプロテスタントの信者が多いが、なかでも聖書の字句を一字一句正しいものとして扱う聖書無誤説をとる福音主義の保守派がその活動の中心となっており、アメリカにおけるキリスト教原理主義の潮流を形成している。

ファンダメンタリストが進化論を問題視するようになったのは、20世紀初頭にアメリカではじまった公立学校教育が始まりとされる。児童を集めて全員に同じカリキュラムを教える公立学校において、生物の時間に進化論を扱うようになったためである。

聖書無誤説では、『創世記』の天地創造に書かれていることも歴史的事実として扱われる(そのため近代聖書批評学の見解を否定する)。すべての生き物はゴッド(『創世記』ではエロヒム)が創造し、海の魚、空の鳥、家畜、地の全ての獣・這うものを人間に治めさせ、人間の祖アダムイヴはゴッド(ヤハウェ)によって創造されたものなのである(この考え方を創造論といい、これを正しいと主張する人を創造論者という)。したがって、自然界の進化の結果として人が誕生したという結論を導く進化論は、これらの人々にとって言語道断の代物であった。

それまでは進化論の存在自体をないものとしていたファンダメンタリストは、自分たちの子供が進化論を教えられることに反対し、学校教育の場で進化論を教えることを以後様々な手段で阻止していくようになったのである。

歴史

背景

原理主義者の活動は、堀江洋文によると、1920年代頃から見られリベラル派の影響下で社会のみならず教会自体が自由主義化世俗化の方向へ向かっていることに危惧を覚え、聖書の真理や主要教理が蔑ろにされている状況を是正しようとし、進化論論争を始めに運動を展開したという[1]

モダニスト・ファンダメタリスト論争(1923年-1924年)

1923年から1924年に、ニューヨークを舞台に「進化論対創造説」議題に論争が交わされた。論者はジョン・ローチ・ストラットン(JohnRoach Straton) (1875-1929) とチャールズ・フランシス・ポッター (CharlesFrancis Potter) (1885-1962) であった。「創造説」の論者であったストラットンはカルパリ・パプテスト教会の牧師であり、ファンダメンタリストであった。一方、「進化論」の論者のポッター はウエストサイド・ユニテリアン教会の牧師であり,モダニス卜であった。

「聖書無謬説」の論点

1日目は「聖書無謬説」を中心に討論された。「創造説」の論拠となった「聖書無謬説」は、1880年代にプリンストン神学校にて生まれたものであった。「聖書無謬説」は「聖書は、神が著者に霊感を与えて書かせたものであり、故に一語一句に至るまで正しい絶対的・超自然的権威」としていたファンダメンダリストが受け入れていた。しかし、聖書の無謬性を示す諸々の証拠であるとするものを提示したのに対して,「聖書無謬説」は「高等批評」(Higher Criticism)の高等批評家によって聖書の誤りや矛盾が次々と発見されていた[2]。 ポッターは「聖書無謬説」の問題点に対し高等批評的見地から反論を展開し,聖書無謬説の脆さを示した [3] また、聖書の超自然的起源を否定しそれをある時代の人間による創作であると位置付けることによって,聖書の絶対的基盤を崩していた[4]

「進化論」の論点

2日目は「進化論」を中心に討論が展開された。チャールズ・ダーウィンによって体系づけられた科学理論であった。伝統的キリスト教を現代社会に適応させた「モダニスは「進化論」を」が支持していた。進化論の論点は、科学的な妥当性、証拠の信憑性などを討論された。 進化の「起因」の妥当性の問題[† 1] があり、獲得形質遺伝を主張したラマルク説、自然選択を主張したダーウィン説、双方とも支持されなくなっていた。[5]地質学的証拠の信憑性の問題があり[6]、進化論に対し聖書を裏付ける科学的根拠としてジョージ・プライスによる「岩層の配列が「非現実的で不自然な方法」で年代別に分類されてきたと主張し,進化論に代わる「より合理的な」仮説として,かつて世界規模の洪水があったという聖書的見解」を示した。[7]。 また、「無数の中間種」がほとんど存在しない問題があった[8]

論争の勝敗

第一回目の討論では高等批評的見地から反論を展開したポッターが勝利し[9]。2回目の討論では確実性の欠く進化論の証拠を反証したストラットンが勝利した[10]

反進化論法の成立

ウィリアム・ジェニングズ・ブライアン

当初ファンダメンタリストの動きはそれほど組織立ったものではなかった。その状況を変化させたのが、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの登場だった。ブライアンは民主党大統領候補に3度選ばれた人物であり、アメリカに婦人参政権累進課税を導入するよう働きかけた大衆運動家である。

ブライアンはリベラルな思想の持ち主であったが、進化論は、敵を排除することで自分だけが生き残ろうとする非道徳的でキリスト教に反する悪魔の理論とみなしていた。チャールズ・ダーウィン自然選択説に対する典型的な誤解であるが、これには当時ダーウィニズムの隠喩を社会に当てはめて解釈しようとする社会ダーウィニズムの影響も大きかった。社会ダーウィニズムはその当時、ナチス・ドイツやアメリカなどでの人種差別論優生学の正当化の根拠となっていたのである。

ブライアンは社会ダーウィニズムから導かれるそのような思想がアメリカに広がることに危機感をもっていた。そして、反キリスト教的理論(進化論)が広まることを阻止するためファンダメンタリストと結びつき、アメリカ各州に公立学校教育の場で進化論を教えることを禁止する法律をつぎつぎと成立させていったのである。

スコープス裁判(1925年)

ダーウィンの風刺画:進化論が話題になると、しばしばこのような風刺画が書かれた。

これらの反進化論法に対し、裁判の場で争って廃止しようとする動きを主導したのが、アメリカ自由人権協会(ACLU、American Civil Liberties Union、アメリカ市民自由連合、全米自由人権協会)だった。ACLUは表現の自由など様々な市民の自由を守るための活動を続けている団体である。

ACLUは進化論教育を禁じる法律を裁判にもっていくために、進化論を実際に公立学校で教えて逮捕される志願者を広告で募集した。そして実際に教育の場で進化論を教えたとして逮捕されたのがテネシー州デイトンにあるレイ・セントラル高校の理科と体育の教師ジョン・スコープス英語版1900年8月3日 - 1970年10月21日)だった。もっともスコープス自身は、科学的使命に燃えて殉教者となったわけではなかった。実際にACLUの広告に応募したのは裁判によって町の知名度をあげようとした町の顔役たちであり、スコープスは彼らに頼まれて臨時の生物の授業のときに進化論の話をしたという証言をしただけである。また、スコープスはケンタッキー大学法学部を卒業しているが、生物学や理科教育の専門的なトレーニングを受けていなかった。スコープスは本来レイ・セントラル高校フットボールチームのコーチとして招聘されたのであり、教師としてのキャリアは1924年の年度末に2週間ほど理科の代用教員を務めただけであった。

検察側の代表としてウィリアム・ジェニングズ・ブライアンその人が、そして弁護側の代表として有名な弁護士だったクラレンス・ダロウがでることになった結果、この裁判は全米の注目を集めることになった。これが1925年7月10日から21日まで計10日間、テネシー州デイトンで行われたスコープス裁判 (Scopes Trial) である。アメリカでは、通称モンキー裁判 (Monkey Trial) として知られている。

結局、この裁判は進化論教育が行われたかどうかではなく、「聖書の正しさを主張する検察側や反進化の正しさを主張する弁護側のプロパガンダ合戦」となった[11]。スコープスは有罪となり、罰金100ドルが科せられた。弁護側は控訴審で法律の可否を争うつもりだったのである。しかし、控訴した州最高裁では、罰金額がテネシー州の規定に違反して不当に高いとしてこの裁判自体が無効とされることになった。裁判終了後、スコープスは教職を退き、シカゴ大学の大学院で地質学の学位を取得。地質測量技師として石油業界に転身し、1963年に引退するまで勤め上げた。スコープスは引退後の1970年に死去している。

一般にはこの裁判は、ダロウがブライアンに、神が実際に6日間で世界を創造したわけではないかも知れないと認めさせたことから、ダロウの勝ちとされている。しかし、ダロウが罰金額に対して異議を唱えなかったために裁判自体がないものとされてしまい、裁判によって法律を廃止しようとしたACLUの思惑はくずれてしまうことになってしまった。結局1967年にこの法律の廃止が決定されるまで、40年以上もの間、反進化論法が存続することになるのである。

アーカンソー州反進化論法裁判(1968年)

こうした状況が変化したきっかけが1957年スプートニクショックであった。当時のソビエト(現在のロシア)に人工衛星の打ち上げで先をこされたことが、全米に衝撃を与え、アメリカ政府の科学政策そのものが問い直されるということが起こったのである。教育界に対する批判も同様にしておこり、公立学校における科学教育の見直しが行われることになった。

その結果、1967年にはスコープス裁判で争われたテネシー州の反進化論法(通称バトラー法)が廃止され、さらには1968年アーカンソー州の公立学校における進化論教育を禁止した法律に対する裁判(エパーソン対アーカンソー州事件英語版)において、聖書に一致しないという理由で進化論を教授することを禁止することは、特定の理論を抹消しようとする試みであり、合衆国憲法修正第1条(表現の自由や信教の自由などをあつかっている)に違反するとする、初の連邦最高裁判所の判断を引き出すことに成功するのである。

アーカンソー州授業時間均等法裁判(1982年)

1968年の裁判によって進化論を教えることを禁ずる法律は違憲とされたわけであるが、その後のアメリカの保守化の流れによって、再びファンダメンタリストは反進化論法と呼べる法律を成立させることに成功する。それが1981年にアーカンソー州とルイジアナ州で制定された、公立学校教育において進化論と創造科学を均等な授業時間で教えることを定めた法律である。

創造科学は1968年の判決をうけて創造論者が生み出した、創造論を科学的理論で説明しようとする主張である。一見科学理論のようにみえるが、実際にはすべての発端が神の御業によるものとするため検証が行えない学説である。しかしファンダメンタリストはこれを科学理論として進化論と同じ扱いをするよう求めたのである。

1981年に起こったこの裁判では、創造科学は科学なのか、あるいは進化論は科学といえるのかということが争点となった。創造論者は当初創造科学は科学であるとしていたが、次第に弁護が苦しくなると、逆に進化論は科学理論とは言えず宗教と同じものであるという主張をするようになっていった。

これに対し、この裁判を担当した連邦判事ウィリアム・オヴァートンは、創造科学を科学ではないと結論し、特定の宗教の教義を助けるものだとして、1982年1月5日、アーカンソー州法に違憲判決を下した。彼は判決文のなかで、「科学理論とは不変のものでなく、その理論に一致しない事実や反証などによって、つねに改訂または破棄されうるものである。その理論の用語によって教義化され、絶対的で、決して改訂されることがないものは科学理論ではない。」と述べた[12]

そして、学校教育のなかで教えるべき科学理論とはどのようなものか、その条件を提示した。

  1. 自然法則により導き出される。
  2. 自然法則への言及によって説明される。
  3. 経験可能な世界に対して検証可能である。
  4. その結論は仮のものである。つまり、最終的な結論である必要がない。
  5. 反証可能である。

オヴァートン判事の判決文は、科学の定義に関する優れた論文として、その後アメリカの科学雑誌『サイエンス』に全文が掲載されている。

ルイジアナ州授業時間均等法裁判(1987年)

残るもう一つの反進化論法であるルイジアナ州の授業時間均等法は、連邦最高裁判所まで争われることになった。1982年に類似の法律に判決が出ているため、それを追認するかどうかが問題点であった。

1987年、連邦最高裁判所は7対2の票差でルイジアナ州法に違憲判決を下した(反対票を投じたのはレーガン大統領に任命された保守系の判事であった)。その結果、1920年代に始まった進化論裁判に、一つの区切りがついたのである。

現在の動き

1982年のオヴァートン判事によって科学ではないと否定された創造科学は、その後その主張の一部を変更し、現在はインテリジェント・デザイン論(知的デザイン論)というものに姿を変えている。生物は偶然によって創造されたとするには複雑すぎるので、なんらかの高度な知性が働いたに違いない。つまり世界を創造したのは神だとはせず、なにかの知的な存在(デザイナー)だとするのである。この考えかたは1802年にイギリスの神学者ウィリアム・ペアリーが『自然神学』で著したものを、そっくりなぞったものになっている。

1989年に出版された『パンダとヒトについて』という子供向けの本は、この知的デザイン論の入門書として知られているが、そのなかでは聖書の出来事は一切触れられていない。創造論者はこれらの本を教科書として採用するよう教育委員会に強く働きかけているのである。

1987年、最高裁判所にて公立校における「創造科学」 教育に対し違憲判決以降、 1990年代には「創造論運動」は選挙により教育委員を送りこむことで、 生物進化の教育の阻止を目指した。1990年代後半には、生物進化の教育を巡って、 州レベルの教育委員会で議論が起こっている。 テキサス州教育委員会では生物学教科書、 ネブラスカ州、ニューメキシコ州では科学教育のガイドライン、 アラバマ州では教科書の見返し、カンザス州では「科学カリキュラム基準」を巡って創造論と進化論を巡る議論が行われていた[13]。 アメリカにおいて、生物の授業で進化論に言及したがらない教師が存在するのは、教育委員会や一部の親からの抗議などが無言の圧力になっているとされている。

1991年に行われた「ギャロップ調査によれば、今でも47%のアメリカ人(大学卒でも4分の1)は「神がこの一万年のある時点で人間をほぼ現在の形につくった」と信じている」という[14]。1990年代にも反進化論運動は衰えていなかったといわれている。

2004年11月のCBSの調査では、55%のアメリカ人が神が人を創造したと考えているという結果がでている[15]

2005年8月、ジョージ・W・ブッシュ米大統領は、インテリジェント・デザイン論が学校で教えられることはよいことだと発言した。翌日、大統領報道官は前日の大統領の発言に関して「進化論を学校教育から外そうとも、創造論を教えようとも考えていない」と弁明した。

2005年にはペンシルベニア州でも同州のドーバー学区が高校の生物の授業にインテリジェント・デザイン論を導入しようとした。しかし保護者の訴えにより起こった裁判(ドーバー裁判)で、同州連邦地裁は同年12月20日、同教育に違憲判決を下した。ジョーンズ判事は、インテリジェント・デザイン論は「科学理論ではなく宗教的見解」だと判断し、同論の目的は「公立学校で宗教を教えることにある。信じられない愚行だ」と述べた。

2009年2月11日に米世論調査企業ギャラップが発表した調査結果によると、米国で「進化論」を信じる人は39%にとどまり、全く信じない人が25%だった。36%は進化論に対して意見を持っていなかった。なお、この調査では若年・信仰心の薄い者ほど進化論を信じる割合が高くなっている。過去10年間に行われた調査においても、44〜47%の人が、神が過去1万年ほどの間に、人間を現在のような形で創造したと信じていると答えている[16][17]

映画

風の遺産(en)(スコープス裁判を題材にしている)

赤血球(せっけっきゅう、: Red blood cell あるいは Erythrocyte)は血液細胞の1種であり、酸素を運ぶ役割を持つ。
血液の光学顕微鏡写真、多数あり丸く赤く写っているのが赤血球。中央に1つある細胞は白血球、赤血球の間に見える小さなゴミのようなものが血小板である
各血球、左から赤血球、血小板白血球(白血球の中で種類としては小型リンパ球)色は実際の色ではなく画像処理によるもの

概要

赤血球は血液細胞の一つで色は赤く[注 1]血液循環によって体中を回り、から得た酸素を取り込み、体の隅々の細胞に運び供給する役割を担い、また二酸化炭素の排出にも関わる。赤血球の内部にはを含む赤いタンパク質ヘモグロビンが充満しており、赤血球はヘモグロビンに酸素を取り込む[1]。大きさは直径が7-8μm、厚さが2μm強ほどの両面中央が凹んだ円盤状であり[2]、数は血液1μLあたり成人男性で420-554万個、成人女性で384-488万個程度[注 2][3]で血液の体積のおよそ4-5割程度が赤血球の体積である[4]。標準的な体格の成人であれば全身におよそ3.5-5リットルの血液があるため、体内の赤血球の総数はおよそ20兆個であり、これは全身の細胞数約60兆個[5]の1/3である。体内の細胞にくまなく酸素を供給するために膨大な数の赤血球が存在する。骨髄では毎日2000億個弱程度の赤血球が作られている[1]が、その寿命は約120日[6]で、120日の間におよそ20-30万回に渡って体を循環して[注 3]酸素を供給し、古くなると脾臓肝臓などのマクロファージに捕捉され分解される[7][8]。赤血球は体の隅々の細胞にまで酸素を供給するため、柔らかく非常に変形能力に富み、自分の直径の半分以下の径の狭い毛細血管にも入り込み通過することができる[9][10]

赤血球は成熟する最終段階で細胞核ミトコンドリアリボゾームなどの細胞内器官を遺棄する。酸素の運搬には不要な細胞核や酸素を消費するミトコンドリアを捨て去り、乾燥重量の約9割がヘモグロビンである[8]赤血球はいわばヘモグロビンを閉じ込めた柔軟な袋であり、ヘモグロビンによる酸素運搬に特化した細胞といえる。ミトコンドリアを持たないため、細胞の活動に必要なエネルギーは嫌気性解糖系と呼ばれる酵素によって糖(グルコース)を分解して得る[11]

赤血球の構造と機能

赤血球の役割は酸素と二酸化炭素の運搬であり、その構造は表面の赤血球膜と内部の細胞質に分けられるが、赤血球細胞膜を通して酸素と二酸化炭素が交換され、細胞質のヘモグロビンと酵素の働きで酸素と二酸化炭素は輸送される。

通常の細胞が持つ核などの細胞内器官を捨て去っているため、細胞質は水とヘモグロビンで容積のほとんどを占め、それ以外は解糖系やペントースリン酸経路に関わる酵素、炭酸脱水酵素、グルコース、炭酸、Na+, Ca2+, K+, Cl 等のイオンなどわずかであり[12][13][14]、正常な赤血球の細胞質には顕微鏡観察で目に付く構造はない[15]

形状は両面中央が凹んだ円盤状であるが、それは同じ体積の球に比べ表面積が30-40%大きく、その大きな表面積のため酸素・二酸化炭素の交換が球状の場合よりも有利であると考えられている。また赤血球は毛細血管では折り曲げられたり変形したりして通過するが、球に比べて両面が凹んだ円盤状だと体積に比べ表面の赤血球細胞膜に余裕があるため、変形のひずみの力に対して細胞膜にかかる力が小さくなると考えられている[12][16][17]

成熟した赤血球は、通常の細胞が持つ核やミトコンドリア、リボゾーム、ゴルジ体小胞体などを捨て去り、酸素の輸送に特化した細胞であるので、細胞の運動能やタンパク質・脂質の合成能を持たず、通常の細胞のようには多くのエネルギーを必要としない(そのために酸素を消費してエネルギーの産出を担うミトコンドリアを捨て去ることができる)。しかし、赤血球でも ATP を用いての陽イオンの輸送や細胞膜やヘモグロビンなどの各タンパク質の維持のために(通常の細胞よりは少ないものの)エネルギーを必要とする。エネルギーはグルコースを分解することで得られるが、グルコースの90%は嫌気性解糖系と呼ばれる多数の酵素による ATP合成経路であるエムデン-マイヤーホフ経路によって消費され ATP を産出する。この ATP は Na+ や K+ などの陽イオンの輸送や膜タンパクのリン酸化、解糖系自身の維持などに使われる。残りのグルコース10%は NADPH を産出するためにペントースリン酸経路を経由することで消費される。NADPH はヘモグロビンなどの各タンパク質が酸化されることを防ぎ、保護する[18][19]

ヘモグロビンと酸素・二酸化炭素輸送

ヘモグロビンの立体構造図(リボンモデル)一つのヘモグロビン分子はヘム分子とグロビン分子がそれぞれ4つで構成され、赤または黄色に着色されているのがグロビン、緑色に着色されている小さい分子がヘムである。それぞれのヘムの中心に鉄原子が一つありそれが酸素と結合する。
ボーアの原論文を元にした説明。酸素に富み、二酸化炭素の少ない肺(酸素分圧 100mmHg、二酸化炭素分圧 5mmHg 程度)ではヘモグロビンの酸素飽和度はほぼ100%になる。赤血球はそのまま酸素の少ない組織(たとえば酸素分圧30mmHg、図の赤線)に行くが、もしも二酸化炭素がない環境だと持っている酸素のうち18%程度しか放出できないが、組織内に二酸化炭素 (40mmHg) があると約50%、二酸化炭素 (80mmHg) があると約70%もの酸素を放出することができる。

ヘモグロビンは赤血球細胞質の主要な構成物質であり、肺から全身へ酸素を運搬する役割を担っているタンパク質である。 ヘモグロビンはポルフィリン核に鉄を持つ4つのヘムと4つのグロビンからなり[20]、ヘムは中心に1つの鉄原子を持ち、酸素1分子を結合することができるので、ヘモグロビン1分子で4個の酸素分子と結合することができる[21][22]。標準的な体格の成人が持つ赤血球に含まれるヘモグロビンの総量は約750g であり[1]、1gのヘモグロビンは酸素 1.39mL と結合することができる[23]ので、総量としておよそ 1L の酸素と結合することができる。

赤血球の幼若な[注 4]段階である赤芽球には豊富なミトコンドリアポリリボソームが存在し、それらによって赤芽球は盛んにヘモグロビンの合成を行い、細胞が成熟するにつれて細胞質はヘモグロビンで充填されていくが、赤血球成熟の最終段階でミトコンドリアやポリリボソームが抜け落ち、成熟し完成した赤血球ではもはやヘモグロビンの合成は行われない[24]

赤芽球のミトコンドリアではヘムの骨格を成すポルフィリン環が作られ、ポルフィリン環に鉄原子が組み込まれてヘムが作られる。一方、mRNA に複数のリボソームが連結したポリリボソームはアミノ酸を組み立ててたんぱく質であるグロビンを作る[24]

ミトコンドリアが作ったヘムとポリリボソームが作ったグロビンが細胞質内で出会い、ヘモグロビンになる[24]

成熟した赤血球は骨髄から血管内に移動し、血液循環によって肺から組織・組織から肺を巡る。組織内では細胞の活動により二酸化炭素が発生し血漿や組織液に溶け込んでいるが、細胞膜を通して二酸化炭素は赤血球内に取り込まれる。赤血球内で二酸化炭素 (CO2) と水 (H2O) は炭酸脱水酵素によって重炭酸イオン (HCO3) と水素イオン (H+) になり、水素イオンが増加することにより酸性が強くなった赤血球内では、酸素とヘモグロビンが結びついたオキシヘモグロビンから酸素分子が遊離し、細胞膜を通って体細胞に酸素が供給される(ボーア効果)。酸素を放出したヘモグロビンは水素イオンと結びついて赤血球内が極端に酸性に傾くのを防ぐ[22][25][26]

血液中の二酸化炭素のほとんどは赤血球内に取り込まれ、二酸化炭素の約70%は赤血球内の炭酸脱水酵素によって重炭酸イオンに変換され、重炭酸イオンの多くはバンド3 (band 3) と呼ばれる赤血球膜を縦貫する膜輸送たんぱく質によって塩素イオンと交換に赤血球外に出され血漿に溶け込んで肺に循環する。二酸化炭素の15-20%は酸素を放出したヘモグロビンに結びつきカルバミノヘモグロビンとして赤血球により肺に運ばれ、約10%はそのまま血漿に溶け込んで肺に循環する[27]

人の場合だと肺では酸素分圧はほぼ 100mmHg であり二酸化炭素はほとんどないので赤血球の酸素飽和度はほぼ100%になる。酸素を含んだ赤血球は組織に循環するが、組織内の酸素分圧は組織によって違い、一般的な組織内では 40mmHg、活動中の筋肉内では 20mmHg 程度になる[注 5]。酸素分圧の差でも赤血球は酸素を放出するが二酸化炭素が存在せず酸素分圧の差のみであると、赤血球は持っている酸素の内 10-30% 程度しか赤血球外へ放出できない。しかし組織内に二酸化炭素が発生していると二酸化炭素が炭酸に変換されることで pH が低下し、pH の低下によっておきるボーア効果で赤血球は大半の酸素を放出することができるようになる[28](右上図も参照のこと)。

酸素に富み二酸化炭素の少ない肺では、赤血球は逆の行程で重炭酸イオンを二酸化炭素に戻して吐き出し、酸素を取り込む[25]。つまり、二酸化炭素の少ない肺では赤血球内の二酸化炭素が出て行くが、赤血球内の二酸化炭素濃度が下がると炭酸脱水酵素は組織内のときとは逆に水素イオンと重炭酸イオン (HCO3) から二酸化炭素 (CO2) と水を生成して、赤血球内の細胞質の pH は上昇する。また赤血球内の重炭酸イオンが減少したことで赤血球外の重炭酸イオンが塩素イオンと交換で取り込まれ、二酸化炭素に変換されて再び放出される。pH が上昇した赤血球内では酸素を取り込みやすくなり、もともと酸素に富んだ肺組織内であるのでヘモグロビンはいっぱいに酸素を取り込む。酸素飽和度が上がった赤血球は、再び末端の組織細胞に酸素を運搬する[29]

過剰な酸素は細胞を傷つけるが、赤血球に酸素を取り込み末端組織内で酸素を吐き出す過程では二酸化炭素の存在によって酸素が供給されるので、二酸化炭素の濃度が濃い(一般に活動の盛んな細胞ほど二酸化炭素の排出が多い)ほど赤血球が供給する酸素の量が増えてくるので酸素を必要とする細胞に必要とする適量の酸素を供給することができる。この点が液体に酸素を溶かし込んで供給するシステムとの大きな違いである[25]

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