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カテゴリ: 旅行・温泉・世界旅行

蓮華寺(れんげじ)は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。

蓮華寺
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蓮華寺山門から参道越しに庫裏に臨む
所在地 京都府京都市左京区上高野八幡町1
位置 北緯35度3分50.66秒
東経135度47分59.99秒
山号 帰命山
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来
創建年 寛文2年(1662年)再興
開山 実蔵坊実俊
開基 今枝近義
別称 洛北蓮華寺
文化財 紙本著色山王霊験記 ほか

蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり[1]応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである。

上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であった[2][3]。重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている[2]

上述のように、蓮華寺の起源である西来院は本来は時宗寺院であった。しかし、近義による再建に際して、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となった。また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来する[1]

蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家詩仙堂を造営した石川丈山朱子学者の木下順庵狩野派画家の狩野探幽黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力した[2]ことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の「東北歴覧之記」(『近畿游覧誌稿』所収)に記されている[4][5]。また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれている[4][6]。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった[7]

Shimanto_River_And_Iwama_Bridge_1

四万十川(しまんとがわ)は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川[2] 。全長196km、流域面積2186km2[1][注 1]四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっている。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、また柿田川長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。名水百選[3]日本の秘境100選にも選ばれている。ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではない[4]

四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

通潤橋(つうじゅんきょう)は、熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある石造単アーチ橋江戸時代嘉永7年(1854年)に阿蘇外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水上井手(うわいで)水路の通水管が通っている。

通潤橋
通潤橋(通潤用水)(2007/06/10)
通潤橋(2007年6月撮影)
基本情報
日本の旗 日本
所在地 熊本県上益城郡山都町
交差物件 緑川水系五老ヶ滝
建設 1854年
座標 北緯32度40分54.1秒 東経130度59分37.3秒

ポーランド・リトアニア共和国1569年 - 1795年)は、ポーランド王国リトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年に成立した複合君主制(ポーランドの元首とリトアニアの元首を一人の人物が兼ねる)国家。16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった[2][3][4][5]

政治形態

この連合国家の政治システムは、法と貴族階級(シュラフタ)によって支配される立法府(セイム)が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば貴族共和国ないし黄金の自由とも呼ばれる(以下、国称を共和国と略称)。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば民主制[6]立憲君主制[7][8][9]連邦制[10]の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった[11]。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではない。多民族のポーランド王国の立法行政司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王リトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた[12][13][14]

黄金期であった初期の数十年間[15][16][17][9][18]を過ぎると、共和国は17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的[19]な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家ロシアプロイセンオーストリアによる領土分割によって国家自体が消滅するに至った。その消滅までの期間は急速なものだったにもかかわらず、末期の共和国は政治的な大改革を成し遂げ、世界で最も古い民主主義成文憲法の一つである「1791年5月3日憲法」を生みだすこととなった[20]

なお、この国家を指して(ポーランド民族とリトアニア民族の)二民族の共和国と呼ぶこともあるが、これはポーランドの共産主義時代の1967年にポーランド人アマチュア歴史家のパヴェウ・ヤシェニツァ英語版があみだした造語である。これは当時の共産圏ソ連主導の民族イデオロギーを反映したものであり、「共和国」が実現していた当時にはこのような呼び方はなかった。このような民族観は、ポーランド人の成立の実際の過程にそぐわない。[要出典]

国称

共和国の正式名称は「ポーランド王国およびリトアニア大公国」

  • ポーランド語: Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie
  • ルーシ語: Королѣвъство Польское и Великое князство Литовское
  • リトアニア語: Lenkijos Karalystė ir Lietuvos Didžioji Kunigaikštystė

18世紀以前はそのラテン語の国称「Regnum Poloniae Magnique Ducatus Lithuaniae」でも記されることがあった。

また18世紀後半になると「最も静穏なるポーランド共和国[21]」が対外的な国称としては一般的となった。

一方、ポーランド国内では「共和国」を意味する「ジェチュポスポリタ」の名称で呼ぶのが習慣化した。

近年では「二民族の共和国」という呼称も一般化しつつある。「共和国 (Rzeczpospolita) 」および「二民族 (Oba Narody) 」という言葉は当時から広く用いられていたが、「二民族の共和国」という呼称は共和国が存在していた時期に使われたことはなく、1967年にパヴェウ・ヤシェニツァの本で用いられたのが最初の例である[22]。日本語では「両民族の共和国」「二国民の共和国」「両国民の共和国」とも訳される。

なお、歴史学においては、「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。

地理

共和国の地勢図(1764年)

16世紀、ポーランドの司教地図学者だったマルチン・クロメルは、ラテン語の地図帳『ポーランド:その地理、民族、文化およびポーランド共和国の官職』を出版したが、これは当時の最も分かりやすい共和国の案内ガイドだと言われていた。クロメルの著作とゲラルドゥス・メルカトルが製作した同時代の地図は、共和国の国土の大部分を平野として描いている。

共和国南部のクレスィは、ステップ地帯として有名であった。タトラ山脈をその最高部とするカルパチア山脈は南部国境を形成し、バルト海が北部の自然国境となっていた。当時の大部分のヨーロッパ諸国家と同じく、共和国は広大な森林地帯に覆われており、その傾向は東部において顕著だった。歴代国王の公的な狩猟場であったビャウォヴィエジャの森の今日に残留する部分は、無傷で残っているヨーロッパの原生林としては最後のものである。

人口

1569年ルブリン合同後の人口は[23]

総合人口 約700万人


1618年デウリノの和約後、共和国は領土拡大に伴い人口も増加した[24]

総合人口 約1200万人

歴史

ゲルマン人が定住生活に入った紀元前1800年頃には、すでにビールが作られていたことが記録されている[1]。紀元前800年ごろのビールジョッキが、クルムバッハで発見されている[1]

ドイツではビールの品質に関する条例をアウクスブルク1156年に、エアフルト1434年レーゲンスブルクで1447年に公布していた[2]。これらは自治体レベルの条例であったが、1516年4月23日バイエルン公ヴィルヘルム4世が「ビール純粋令」を公布することによって、国家レベルで不正を働くビール製造業者の取り締まりやビールの品質向上を目指す世界初の食品条例となった[2]

19世紀になると下面発酵によるラガービールが発明される[3]アントン・ドレハードイツ語版ガブリエル・ゼードルマイル2世ドイツ語版とが冷蔵技術を完成させ、下面発酵ビールの醸造技術を確立[3]。1842年にはピルゼンにおいてピルスナーが完成する[3]1873年カール・フォン・リンデ冷凍機を発明し、冷やして飲むビール文化も定着するようになった[3]。19世紀後半になるとフランスルイ・パスツールが「上面発酵より下面発酵の方がビールの質が落ちるのを防止する上で決定的に有利である」と主張し、こういった事情もあってビールの主流は上面発酵のエールから下面発酵のラガーへと切り替わった[4]

1919年バイエルンヴァイマル共和政に参加する条件の1つにドイツ全体でのビール純粋令の採択を挙げており、これが採択されビール純粋令はドイツの国法となった[2][4]

欧州共同体 (EC)発足にあたって、ビール純粋令は非関税障壁として問題とされ、ドイツ国外への輸出ビール、ドイツ国内への輸入ビールには適用されなった[5][6]

1993年、ドイツ政府はビール純粋令をビール酒税法の一部として改めて法制化した[5]。この新しい法では、醸造に用いる酵母によって、原料を制限している[5]

2016年時点で、ドイツ国内では若者や女性の健康志向などから「ビール離れ」が進んでいる[7]

ドイツビールの分類

代表例[6]
使用酵母による分類
上面発酵
上面発酵酵母(エール酵母)によって醸造される代表的なドイツビール[6]
下面発酵
下面発酵酵母(ラガー酵母)によって醸造される代表的なドイツビール[6]

PGIに指定されたドイツビール

1912年欧州議会で制定された地理的表示保護(Protected geographical indication、略称PGI)で認定されたドイツビールは以下の12種類[6]

  • Bayerisches Bier(バイエリシェス・ビア)
  • Bremer Bier(ブレーマー・ビア)
  • Dortmunder Bier(ドルトムンダー・ビア)
  • Gögginger Bier(ゲッギンガー・ビア)
  • Hofer Bier(ホーファー・ビア)
  • Kölschケルシュ
  • Kulmbacher Bier(クルムバッハ・ビア)
  • Mainfranken-Bier(マインフランケン・ビア)
  • Münchner Bier(ミュンヒナー・ビア)
  • Reuther Bier(ロイター・ビア)
  • Rieser Weizenbier(リーザー・ヴァイツェンビア)
  • Wernesgrüner Bier(ウェルネスグリューナー・ビア)

エピソード

やんばる国立公園(やんばる こくりつこうえん、英称:Yambaru National Park [1])は、沖縄県国頭郡国頭村大宜味村および東村ならびにこれら3村の周辺海域を区域とする国立公園である。

当公園の国立公園の指定は、日本全国で33番目である[2]。新規の指定としては、2014年慶良間諸島国立公園以来2年ぶりで、沖縄県内においては3番目の指定となる[3]

指定範囲

国頭村、大宜味村、東村を合わせた3村は、以降「やんばる3村」と表記する。

「やんばる(山原)」とは、一般的に沖縄本島の北部地域を指し、「山々が連なり森の広がる地域」を意味する[4]沖縄海岸国定公園の一部がやんばる国立公園に編入され[5]、面積は17,292ha(陸域13,622ha、海域3,670ha)で、やんばるの亜熱帯照葉樹林を中心とした区域となっている[6]。国頭村が陸域の75%を占める[7]。米軍基地の北部訓練場は指定域から除外されているが、米軍施設と隣接する国立公園の誕生は初めてとなる[8]。以下に指定区域内の地名を示す[9]

保護規制区域

以下に特別地域と普通地域の指定面積を示した[6]。また環境省は、当公園の指定域の特別保護地区と第1種特別地区(総面積5,217ha)を世界自然遺産奄美・琉球」の推薦区域として、早くても2018年に登録を目指している[11]。2016年7月1日に開かれた、NPO法人による討論会で、やんばる国立公園の規制区域の計画案について、特別保護地区の範囲拡大、さらに国と沖縄県、そしてやんばる3村が、やんばるの森を全面的に保護するべきだと述べ、徹底的な調査を求めた[12]

  • 特別保護地区 - 789 ha
  • 第1種特別地域 - 4.428 ha
  • 第2種特別地域 - 4,054 ha
  • 第3種特別地域 - 3,345 ha
  • 普通地域 - 4,676 ha

事業計画

(出典[6][13]

  • 保護施設計画 - 照葉樹林の再生と成熟を促すため、自然再生施設3か所を設置。
  • 利用施設計画 - 単独施設(園地、宿舎、野営場、博物展示施設)を23か所、また車道4路線、歩道7路線を指定。

設立への経緯

やんばるに生息するヤンバルクイナ。

1996年、自然保護議員連盟の幹事長を務めた岩垂寿喜男が、当時の環境庁長官の就任挨拶で、やんばるの国立公園化構想を発表した[14]。同年4月15日、日米特別行動委員会 (SACO) の中間報告に、北部訓練場の半分以上の敷地面積が返還されることが付け加えられた[15]。これを受けて同日、岩垂は中間報告で返還後の北部訓練場の土地利用について、「国立公園を選択肢の一つとして検討したい」と述べ、やんばるの自然環境について詳しく調査する考えを示した[16]

2007年3月9日、環境省は36年ぶりに国立・国定公園の選定要領の改正に伴い、やんばると奄美群島に群生する照葉樹林地帯を国立公園として指定する方針を決定した[17]。1971年の選定要領は自然公園法に基づき、「優れた自然の風景地」を評価するため改められたが、景観の他に生物多様性などの観点を取り入れ、「照葉樹林」、「里地里山」、「海域」といった評価の対象が要領に盛り込まれた[17]2010年10月に公表された国立・国定公園総点検事業において、やんばるは陸域から海域にかけて、多様で連続性をもつ生態系を有し[6]、「日本国内で傑出した地域」と評価された[18]

2010年に公表された生物多様性国家戦略において、生態系のつながりを考慮した自然公園の指定・拡大を図り[19]、またエコツアーの増加による対策として自然環境を保護する目的で、環境省は国立・国定公園の指定状況の見直しを行い、新たな公園の創設と区域拡張すべき既存公園を選定した[20]。2010年10月4日、同省により国立公園の新規指定候補地5か所のうち、やんばる地域が選出された[20][21]。その理由として、ヤンバルクイナノグチゲラなどの固有種と、その他の絶滅の恐れがある動植物が集中的に分布していることが挙げられる[19]

2016年2月1日発行の琉球新報の記事にて、国頭村村長の宮城久和は、やんばるの国立公園の指定を目指し、地権者と協議を進めていると述べた[22]。沖縄県は2015年6月に環境省から照会を受けて、同年9月にはやんばるの国立公園化に向けた協議で意見調整が行われ、2016年2月26日に国立公園化に同意した[23]。その翌日の2月27日に、環境省はやんばるに「やんばる国立公園(当時は仮称)」を設立する方針を決定した[24]。国立公園の指定、さらに世界自然遺産「奄美・琉球」の登録に向けて、土地開発や農業・林業に対する規制について、合意が進んだ[25]。2016年6月20日中央環境審議会からの答申を受けて、環境省は「やんばる国立公園」の指定を決定した[18]

2016年9月9日山本公一環境大臣は同年9月15日に、沖縄本島北部地域を「やんばる国立公園」として指定すると、閣議後の会見で発表した[26]。指定日は地元自治体の要望により、ヤンバルテナガコガネが発見された1983年9月15日にちなんで決定された[26]。また環境省は、指定日の9月15日に官報において告示すると発表した[27]。そして9月15日に、「やんばる国立公園」は官報に告示され、正式に指定された[28]

年表
  • 1996年4月15日 - 当時の環境庁長官は、返還される北部訓練場の跡地利用の候補として国立公園化に言及。
  • 2007年3月9日 - 国立・国定公園の選定要領を改正し、やんばるを国立公園として指定する方針を決定。
  • 2010年10月4日 - 国立公園の新規指定候補の一つとして、やんばる地域を選定。
  • 2016年2月27日 - やんばるに「やんばる国立公園(当時は仮称)」を設立する方針を決定。
  • 2016年6月20日 - 中央環境審議会の答申を受け、「やんばる国立公園」の指定を決定。
  • 2016年9月15日 - 「やんばる国立公園」の指定。

国立公園の指定に関する取り組み

2016年4月19日キリンビールが、環境省とやんばる3村と連携した「キリン一番搾り生ビール やんばる国立公園指定応援デザイン缶」を発売すると、沖縄県庁舎で行われた記者会見で発表し、売り上げの一部でやんばるで行われている密猟パトロール用の制服を製作し、それを寄贈するとしている[29]。また同年10月20日オリオンビールは国立公園の指定を記念した「オリオンドラフト記念デザイン缶」を販売すると発表し、1本の売り上げごとに1円をやんばる3村の環境保全活動の資金として寄付するとしている[30]

指定日の2016年9月15日に、国立公園の指定を祝して、やんばる3村の各村庁舎で懸垂幕が掲げられた[2]。また、やんばる3村の村長らは、国頭村のやんばる野生生物保護センターで、記者会見を行った[28]。国頭村は同日、与那覇岳の第2種特別地域で自然観察会を行い[31]、同村に通う小学生らが与那覇岳の登山道を歩いた[32]

2016年10月7日、環境省は同省のウェブサイト上に、やんばる国立公園を紹介するウェブページ当該リンク)を公開し、やんばるの動植物や文化のほかに、那覇空港からのアクセス方法も掲載している[33]

今後の課題

環境保護と地域開発の両立

やんばるの国立公園化により、当地域の自然保護が強化される[34]。しかし、やんばるに生息する動植物が密猟・過剰採取の被害に遭う実態が報告され[35]、地元住民は定期的に林道を巡回している[36]。理学博士の屋富祖昌子は「国立公園化で、観光客がやんばるの動植物を研究や教育目的以外でむやみに乱獲されるのではないか」とし、環境省のやんばる野生生物保護センターは国立公園化に伴い、外部から人が増えることを予想し、「警察や周辺住民らと連携して密猟の抑止に努める」と述べた[36]。また、2001年には、ペットとして飼われたネコが遺棄されて、その後野生化したノネコによるヤンバルクイナの捕食が発覚すると[37]、その被害を抑えるために、2003年に環境省と周辺自治体でネコの適正な飼育を推進した[38]。しかし、その後の2013年頃にノイヌが増加し、既にやんばるの生態系に影響を及ぼしていると思われ、新たな対策が求められている[38]

当公園のテーマ「亜熱帯の森やんばる - 多様な生命(いのち)を育む山と人々の営み」とあるように、やんばるの森は地元住民の生活と関わりがある[6]。やんばるは、沖縄県内で林業が盛んな地域で[39]、かつて首里那覇や本島中南部に薪材や材木・砂糖樽の板などを供給していた[40]。特に国頭村は沖縄県最大の木材産出地で、2016年現在でも県内唯一の木材拠点産地に指定されるなど、雇用面でも林業は重要な産業となっている[39]。当公園の指定区域内のうち、特別保護地区と特別地域での木材の伐採などが制限され[41]、沖縄県は林業への悪影響を及ぼすことは明らかであると述べた[42]。また、世界遺産に登録されれば、豊かな生物多様性のみを取り上げられ、人々にやんばるの森が手付かずの原生林だと誤認され、規制条件を満たした合法的な収穫伐採でも批判される可能性があると懸念している[42]。やんばるで農林業を営む人々の中には、当公園の区域内で従事し[10]、国頭村で林業を営む住民の一人は、この公園化で林業への恩恵は感じられず、伐採規制の強化のみで行う環境保全に疑問を呈している[7]。沖縄県農林水産部森林管理課は、2015年からやんばる3村で「やんばる型森林ツーリズム推進体制構築事業」を展開している[43]。やんばるの主産業である林業と自然体験活動の組み合わせによる、森林の活用と環境保全を目指している[39]。それを実現するためには、やんばる3村主導で事業を取り組み、自らが意見の合意形成を図り、さらに林業と関連する団体と連携する必要があるとしている[42]

やんばる3村の各村長らは、やんばる国立公園の指定を受け、観光産業の発展に期待しているが、宿泊施設の増設、交通の整備、ごみの処理などの観光客を受け入れる体制が万全に整っていない[44]。また地元住民の中には、観光客の増加による環境負荷を懸念し、それを防ぐために人数制限を設ける必要があるとし、観光客やそれらを受け入れる自治体にも、生物多様性の豊かさを評価されて国立公園化された意味を理解するべきだと述べた[32]。やんばる自然保護官事務所は、自然保護に対する意識向上や、観光と地域振興の活性化に期待し、地元と共にやんばるの将来について考えたいと述べた[34]

世界遺産登録に向けて

環境省は、早くても2018年夏にやんばる国立公園の指定域のうち、特別保護地区と第1種特別地区を、世界自然遺産奄美・琉球」として登録を目指している[11][45]。世界遺産の登録には、国立公園化により、指定区域内における厳正な自然環境の保全が要求され、土地開発の規制や希少な動植物の保護が強化される[3]。2016年9月9日の閣議後会見で山本公一環境大臣は、「なるべく早く世界遺産登録を目指す」と述べた[27]。また沖縄県は、世界遺産の登録でやんばるの自然環境に触れる機会を作り出し、自然環境の保全の重要性を伝えていく必要があると述べた[39]。やんばる自然保護官事務所の自然保護官の一人は、やんばるの国立公園化や世界遺産登録を目的で終わらすのではなく、将来にわたってどのような持続可能な利活用を行っていくか考えるべきだと述べた[4]

やんばる国立公園に隣接する北部訓練場の存在が、世界遺産登録の妨げになるのではないかとの指摘がある[34]IUCN日本委員会を務めた吉田正人は、沖縄タイムスの取材で、過去に登録された日本の世界自然遺産の中で、やんばるに生息する固有種の完全保護性と自然環境の保全が十分なのか判断するのが最も難しいとし、北部訓練場内の動植物の生息状況や米軍による訓練の影響の有無を、日本政府が管轄外という理由で説明できなければ、世界遺産登録は難しいと述べた[46]

北部訓練場について

北部訓練場内の小川で訓練するアメリカ軍兵士ら。

1996年12月2日、日米特別行動委員会 (SACO) は最終報告で、やんばる国立公園の指定域に隣接する北部訓練場の敷地面積の約53%の3,987ヘクタールを返還することに合意した[47][48][49]。やんばる国立公園が指定された2016年9月15日に開かれた会見で、国頭村村長の宮城久和は北部訓練場が国立公園と隣接している状況に好ましくないと述べた一方で、東村村長の伊集盛久は、北部訓練場の一部返還後は国立公園に編入されることに期待している[8]。同年11月15日付に沖縄防衛局へ提出した、沖縄県知事翁長雄志による「北部訓練場の過半の返還に関する実施計画の案に対する意見書」には、返還される北部訓練場の区域が、隣接するやんばる国立公園へ編入される見通しで、かつてアメリカ軍らが北部訓練場内で実施した野生動植物に関する調査結果があれば、その資料の提供を求めた[50]。また、やんばるの自然環境に及ぼす影響を明らかにする必要があるとし、北部訓練場で建設中のヘリパッドの運用が開始されるまでに、オスプレイが及ぼす環境影響評価を直ちに実施することを提案した[50]。ヘリパッド建設反対派の団体の一人は、やんばる国立公園が指定されれば、北部訓練場の基地固定化を招きかねないと考えている[51]。2016年12月22日、北部訓練場の一部区域4,010haが返還された[49]

バリ島インドネシア語: Pulau Bali)は、東南アジアインドネシア共和国バリ州に属するである。首都ジャカルタがあるジャワ島のすぐ東側に位置し、周辺の諸島と共に第一級地方自治体(Provinsi)であるバリ州を構成する。2010年の島内人口は約389万人である。バリ・ヒンドゥーが根ざした地域として知られるが、1990年代以降、イスラム教徒の移民流入が目立つようになっている。

バリ島のランドサット衛星写真
主要地域の位置関係

地理

「インドネシア」におけるバリ島の位置

位置

バリ島は環太平洋造山帯に属する小スンダ列島の西端に位置している。島の西にはバリ海峡を挟んで大スンダ列島に属するジャワ島が、東にはロンボク海峡を挟んでロンボク島を含むヌサ・トゥンガラ諸島があり、帯状の列島の一つをなしている。バリ海峡の最も狭い所は3km 程であり、バリの海岸からはジャワ島の姿形をとらえることができる。

このような地理的関係にあるバリ島は、広くはインド洋を中心にフィリピンから紅海までを繋ぐ「1つの海」の周縁に位置し、他の東南アジア地域と同様、古来より、この広大な海における交易を介した人と物、言葉と思想の移動、交通の一地点となった。そして、この交易を統制すると共に、人々の生活の小宇宙を形成する王国が誕生し、バリ島の「歴史」が紡がれ始める,

地形

アグン山(左)とバトゥール山(中央)
バリ島北側からの鳥瞰

バリ島の面積は5,633km2。島の北部を東西に火山脈が走り、バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(標高 3,142 m[1])やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山(標高 1,717 m)など多くの火山を有している。バトゥール山近辺には温泉も湧出している。この火山帯の活動により、バリ島の土壌はきわめて肥沃なものとなってきたと同時に、時に人々に災害をもたらしてきた。

そして、バリ島の南部では、火山脈に位置するブラタン湖などの湖水からの流れが下流域に向かって分岐している。その分岐と水量は古来より計算通りに案配されてきたものであり、スバックと呼ばれる伝統的な水利組織によって21世紀初頭までその自然環境と共に維持されている。そして、この水系によって島の南側全体が緑にあふれる土地になっている。

これに対して北部では雨こそ少ないが、コプラコーヒーが栽培され(キンタマーニ・コーヒーなど)、牧畜も行われている。また、島の西部は、ほとんどが深い森林に覆われた最高1,000m前後の丘陵地帯になっており、海岸沿いの漁村を除けば、ほとんど無人である。今日[いつ?]、一大観光地として発展しているバドゥン半島も乾燥地帯である。

したがって、バリの村落の大半は、一部の都市地域を除けば農村であり、土地の農業利用率が極めて高い。農業は水耕農作が中心であり、とりわけ、棚田で知られるバリ島中南部の斜面一帯では、上にみたように年間を通じて安定した水の供給がなされ、二期作から三期作が可能となっている。ただし、21世紀初頭では平野部を中心に急速に宅地化が進んでもいる[2]

気候

バリ島周辺はサバナ気候に属し、その季節は、北西季節風の吹く雨季(10月 - 3月)と、南東季節風の吹く乾季(4月 - 9月)とに明確に分かれる(この季節風による荒波によって海上交通が困難であったことが一因となって、以下に見るようにバリ島は島外世界から相対的に独立性を保った歴史的発展をとげることになった)。乾期の間は東部、北部を中心にたびたび水不足に陥る。また雨季といっても、一日中雨が降る訳ではなく、実際には多くても一日に2 - 3時間のスコールである。ただし、ひどいときには道路が30cmほど浸水することもある。

一年を通じて気温の変化はほとんどなく、年間の最低平均気温は約24度、最高平均気温は約31度、また、平均湿度は約78%である[4]。いつでも暑く湿度も高いが、体に感じる暑さは、海からの風によって和らげられている[5]

生態

バリ島の動植物のほとんどはアジアの他の諸島から渡ってきたものであり、バリ島原産のものはまれで、アジアに特徴的にみられる動物相、植物相が広がっている(東のロンボク島との間に生物地理区の境界を表すウォレス線が走っている)[6]

動物については、古くから、トラ、野牛、猿、キツツキ、パイソン、ヤモリなどが数多く棲息し[5]、300種類以上の鳥類が観察できるが[7]、1940年頃にはバリトラが絶滅し、鳥類で唯一の原産種でありバリ州の州鳥であるカンムリシロムクもまた近絶滅種となっている。さらには、近代農業の進展やリゾート地での殺虫剤の散布などによる生態系の変化も見られる[8]。バリで唯一の原野が残されている西部国立公園では、灰色の猿やリス、イグアナなどの野生生物が生息している。また、バリの人々にとって馴染み深いのは、トッケイヤモリと呼ばれる大型のトカゲであり、鳴き声を7回連続で聞くと幸福が訪れるという言い伝えがあるほか、害虫を捕食することから大切に扱われている。

植物では、ワリンギンと呼ばれるベンガルボダイジュがインド文化の影響から霊木として扱われ、香しいジュプン(プルメリア)と共に寺院や民家の庭などで広く見られる。また、バンブー(竹)も多く生息しており、儀礼の開始の合図として用いられるガムランの笛の材料になっている。他には、多種多様のヤシが実っており、ココナツ、砂糖、燃料、繊維などが採出されている。

歴史

有史以前

紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ[9]、紀元前1世紀頃から交易を介してインド中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。

4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人々が来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代を迎え、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。

ジャワ王朝の影響(11世紀 - 16世紀)

11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国との繋がりを強めるようになる。スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができ、例えば、カヤンガン・ティガや家寺院の建立は、この頃にジャワから渡ったヒンドゥーの僧侶クトゥランが広めた慣行とされている[10]。1248年には、クディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパヒトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。

しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついに400年近く続いたワルマデワ王朝は終焉を迎える。マジャパヒト王国は、クディリ王国末裔ムプ・クレスナ・クパキサンの第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンを遣わしゲルゲル王国を築かせ[11]、バリ島はマジャパヒト王国の間接的な支配下に置かれることとなったのである。

しかし、16世紀にマジャパヒト王国がイスラム勢力の侵入により衰亡すると、王国の廷臣、僧侶、工芸師たちがバリに逃れてくるようになる。そして、彼らの影響によって、古典文学や影絵芝居、音楽や彫刻などヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いた。さらには、ジャワから渡来したヒンドゥーの高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院ウルワツ寺院など数々の寺院を建立するなど、宗教面での発展も見られた。

群雄割拠による王国時代(17世紀 - 19世紀)

しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり[12]クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。

17世紀には、オランダ東インド会社を初めとしたヨーロッパ勢力の進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。

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