蓮華寺
蓮華寺山門から参道越しに庫裏に臨む |
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所在地 | 京都府京都市左京区上高野八幡町1 |
位置 | 北緯35度3分50.66秒 東経135度47分59.99秒 |
山号 | 帰命山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 寛文2年(1662年)再興 |
開山 | 実蔵坊実俊 |
開基 | 今枝近義 |
別称 | 洛北蓮華寺 |
文化財 | 紙本著色山王霊験記 ほか |
蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり[1]、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである。
上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地であった[2][3]。重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれた。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結んだ。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去した。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられている[2]。
上述のように、蓮華寺の起源である西来院は本来は時宗寺院であった。しかし、近義による再建に際して、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となった。また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来する[1]。
蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元隆琦や第二世の木庵性瑫らが協力した[2]ことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の「東北歴覧之記」(『近畿游覧誌稿』所収)に記されている[4][5]。また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれている[4][6]。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった[7]。